FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

私東京・私郊外 [的]、建築
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藤村龍至建築設計事務所による共同住宅内覧会に訪れる機会を得たので、少しmemoをしてみたい。
「House of WINDOWS as Generic Building 5」と名付けられたこのビルディングは、起伏の豊かな地形のうえに比較的小さな規模の建物が建ち並ぶ、そんな東京らしい風景の中に建つ共同住宅。
元一軒家の建替えによる5階建てのビルディングということで敷地は周辺を見渡してみても、都心のなかのどこにでもありそうな住宅街の見慣れた建築環境といったおもむき。
国内であればどこにでもありそうな周辺環境と都市的スケールに対し、この規模のビルディングのスタンダードを目指したという藤村氏。
街並みと、当然ながら建築法規に対しても無理無駄のないスケールで建つこのビルディングは、町の風景とこの場所独自のスケールに寄り添いながら堂々とした存在感を放っている。今回の発見は、玄関入って鍵をかけてもまだ外、という各住戸の驚くべきプランが、ワンルーム型の賃貸都市住宅での住まい方を豊かにし、不動産価値を上げている。こうした大きなビジョンに裏付けされたデザインのちょっとしたアイデアが都市での住まい方を豊かにし、使い捨てが現状の賃貸都市住宅を都市のストックと考えることに繋がるんだなと思った。

以前僕は「主観的 BUILDING K」というテキスにおいて「建築の意匠によって、意図的に生じさせたそのリズミカルな建物の頂上付近のバランスは、ユニークでコミカルな印象さえ感じさせる建築の面白さを、空間の輪郭というフォルムによって表現しているようにみえる」と書いたことがある。
「House of WINDOWS as Generic Building 5」においても、音楽がもつ「旋律」と「繰り返し」に近いその独自のバランス感覚は健在で、建物の外観がもつ窓のリズミカルなレイアウトとは裏腹に、内部は各部屋のプランから設備類の配線にいたるまで、徹底的にシンメトリーの思想が貫かれている。そもそも論理的思考に基づいた超線形設計プロセスとは、そのリズミカルなプロセスからして、音楽的なバランス感覚抜きには思考できないものなのかもしれない。
藤村氏の建築を体験するのはBUILDING Kについで二軒目だが、ここでもBUILDING Kのダクト部に感じたのと同様に、僕はその共用部にしつらえられた設備類のシンメトリーな配置に、藤村氏のストイックでアノニマスな美意識を感じた。

近代史以降隆盛を誇るビルディングという建築のモデルは、その言葉がもつ近未来的な響きとともに僕にはある種のノスタルジーをともなって想起される。
それは人がすまう住居において、戸建住宅とは少し違う、より大きなスケールを持ち、そこでは住宅が上下に積み重なり、あるいはさまざまな職種によるオフィスがフロアをシェアし、同じ場所に異なる目的をもった人々が重層的に生活を営む場所となっている。
ビルディングはいまでは都市や郊外の区別なく、生活の場所としてどこにでもある当たり前なものとなっている。逆にいえばビルディングが都市も郊外も、それがどこであっても区別のつかないものとしているともいえる。

写真家のホンマタカシ氏は'90年代半ば作品集「TOKYO SUBURBIA 東京郊外」において、いま生まれたばかりの郊外独特の湿り気のともなった殺伐とした風景を、乾いた質感のネガカラーで同時代の風景として鮮やかにリアリティをもって描いてみせた。
ホンマ氏の写真と同じように藤村氏の建築にも「東京」と「郊外」が分ち難く結びついているように思う。奇しくも藤村氏の近作住宅に「House in Tokyo Suburbia」と名付けられた住宅がある。そしてこの春には「House in Tokyo Suburbia 2 」が竣工するという。東京とその周縁にあるという「郊外」は、そのどちらもが互いの写し鏡としての側面をもっている。東京がなければ郊外はなく、郊外は東京=都市の現実をリアリティをもって写し出している。
都市がもつその2面性こそが藤村氏の建築にも共通する感覚だと僕はなんとなく思っている。

かつて写真家の荒木経惟氏は、東京は自身の写真の終点であると言い、その思いを自身の写真作品のコンセプトと重ね合わせて「私東京」と呼んだ。それでは都市を舞台に建築設計やデザインを考える、建築家やデザイナーにとって、「私」とは、「デザイン」とは、いずれどこに帰着するのだろうか?
荒木氏にとって東京が「終点」であったように、建築家の藤村氏にとっても「東京」そして「郊外」は氏の建築の出発点であり、終点であるのか?
その2面性がもつ多層的な面白さが氏の建築がこれからもつであろう建築の魅力になるであろうと今日このビルディングを体験して僕は思った。
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コンテンポラリーフォトグラフィとは何か? 三
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三. アノニマスな郊外、均質化した風景。言葉の共生の問題をあつかう僕ら


先の篠山氏の疑問に対しホンマ氏は、コンセプトがあってチャームがある。それがコンテンポラリーであったが、それも今では物足りなくなっている。コンテンポラリー、そしてアートとしての写真である以上、頭を使いましょう、というのが最低限であり、その上でのチャームであり、コンセプトであるときりかえした。

「ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー」に展示されたすべての作品に貫かれているのは、既成の写真というものがもつ意味と、その言葉の意味を問い直すこと。
写真を英語でいえば、フォトグラフだが、それを日本語に直訳すれば、光の画となり、「光画」と呼ぶ。いつのころからか日本では、フォトグラフのことを写真と呼ぶようになり、その言葉の意味通りに誰もが写真は「真実を写す」ものであると理解してきた。たがらこそわれわれは、大切な記念日を記録し、大切な記憶を忘れないためにその情景を写真に撮り、それを記憶のための外部装置として使ってきた。
もちろん写真にはそのような機能的な側面もあるが、その機能ばかりが既成事実として重要視され、やがて写真に写ったものを真実だと誰もが疑わなくなってしまった。

マクドナルドや郊外型の巨大ショッピングモールなど、名前をあとから付けられたアノニマスな郊外の風景が均質化した風景のようにのっぺりと広がる「M」の周囲の壁面に展示されたのは、アメリカのアーティスト、マイク・ミルズ氏との共同作品「Together」である。『マクドナルド」をテーマにした「M」と表裏に展示されたTogetherは、
タイトルからもわかるようにミルズ氏との共同作品であることを意味すると同時に、現代社会がある未知のひとつの状況と隣り合わせであることを示唆してみせる。

Togetherの作品を見てみると、どれをとってもそこに写真がもつ決定的瞬間であったり、私的な物語であったりといったドラマチックな要素はひとつとして見当たらない。
それはこれまでホンマタカシ氏が郊外を撮影してきたどの写真と比べてみても、本来写真がとるべきその写真に据える対象物の不在という意味においては、際立っており、それは異常ともいえる。
ただそこに写るのは、ロサンゼルスのフリーウェイとまばらに立つ広告板、そして草木もまばらな砂丘と郊外の住宅街の風景が広がるばかりだ。だが写真に添えられたミルズ氏のテキストを読むと、この不思議な写真が、ある明確な意図をもって撮影されていることが分かってくる。その意図とは、郊外とも砂漠ともつかないこの場所におけるマウンテンライオンなどの野生動物の生態に基づいた、普段は目にすることのない彼らのテリトリーを調査し、それを淡々と写真で示すことである。

これらの写真には、写真に収められたエリアと、そこに生息する野生動物の行動調査のために、捕獲され、識別タグとGPS付きの首輪が取り付けられ野に放たれた野生動物たちのテリトリーと生態が写し出されているのだ。マイク・ミルズ氏によるテキストが添えられたこれらの作品には、あたかも地質学上の研究資料をみるような不思議なおもむきがある。
よくみるとそれらの写真には砂漠のなかのフリーウェイを人々が横断するために作られたと思わしきトンネルや、住宅街にほど近い裏山の風景、乾いた山肌に貼り付くように造成された家々が広がっているのがみえる。
われわれにとって人間の暮らしのこんなにも近い場所に、野生動物たちが息づいていることは驚きに違いない。それはまた、時に人間にとって危険とされる彼ら野生動物のテリトリーを侵食して生活圏を拡大し続ける、人間の生態をも二重に写し出している。それらを見る者の主観を排除し、科学実験のように実証的に検証する視点が、ホンマ氏の写真からは感じられる。また開発のための郊外が、野生動物保護団体の手により、あらたに自然の風景へと逆開発される、そんな風景を写し出しているのだ。ホンマ氏とミルズ氏による「Together」は、文明の発展によってこれまでとは異なる方法での共存を余儀なくされた野生動物と人間との、共生の問題を扱っているのだ。

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kokodewanai dokokahe dewanaku kokoigaininai kokohe
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コンテンポラリーフォトグラフィとは何か? 二.


いくつかの議論のあと、それではと篠山氏は(雑誌ではなく)ギャラリーで展示されたものがコンテンポラリー?と疑問を投げかけた。その意味で、おもにギャラリーで展示されるホンマ氏の写真はその成立からして現代アート的スタンスをもっている。それは近年の篠山氏としても同じことである(つい先ごろも篠山氏の過去作品が清澄のhiromiyoshiiギャラリーに展示された)。そして、そのコンテンポラリーフォトグラフィの写真がもつというコンセプトが何かが分からないと写真をみていてもぜんぜん面白くない、写真が難解であると面白くないと感覚的に指摘した。

ホンマ氏の二つ目の展示室となる、天井高のある空間に床面すれすれの低い位置に展示された作品は、2010年秋に発表され、今回展示された作品のなかでは最も新しい作品となる「M」の連作シリーズ。12メートルの天井高のある空間で、床に置かれた作品を覗き込むようにみる展示となっている。「M」というアルファベットひと文字から連想さるように、この作品のモチーフとなっているのは、誰もが知っているグローバルな企業であるファストフード店、マクドナルドである。
郊外のマクドナルドやコンビニエンスストアのある風景は、ホンマタカシ氏の写真の世界のなかでは、繰り返し取り上げられてきたモチーフだ。この作品は通常の印画紙を用いたプリントではなく、写真作品を元に、ポスターやTシャツの印刷などに用いられるシルクスクリーンで制作されているのが特徴的だ。
それだからか、通常の写真作品とは異なり、シルクスクリーン独特の大きめな網点の集合による作品は、写真というよりも絵画に近い印象がある。近くでみると網点が粗いせいかディテールばかりに目がいくが、引いて見ることで正確な像に補正される。鑑賞者の作品を観る視点は、背丈の違いや立ったりかがんだりと姿勢によってさまざまなので、作品の見えは多様に変化する。それは例えるなら、ひと昔前のブラウン管のTVを近くでみたり、離れてみたりするそんな行為に似ている。
またそれらの作品は、オリジナルとオリジナルサイズをトリミングしたり、色調を大胆に変えたりして複製されたものが等価に並列で展示される。それはあたかもスマートフォンのフラットな物質感をともなわないマルチタッチスクリーン上で、つまんだり拡げたりしながら像を縮小拡大し写真家によって複製されていくようだ。それがシルクスクリーン作品特有の一点一点手作業によるクラフト感ある「複製」の技法によって、デジタルによる大量コピーとは異なるマルチプルなおもむきを生み出すことになり、ホンマ氏独自の作品たり得ている。

ホンマ氏にとっての郊外は、木村伊兵衛賞受賞の「TOKYO SUBURBIA 東京郊外」(1998年)における高度経済成長期を経て拡大していく都市の周縁につぎつぎと建設される、清潔で健康的な集合住宅の写真を見ての推測に過ぎないが、そこにある「同時代性」に対する批評ではなく、同じ規格をもつ無数の窓が連続することに象徴されるその「均質」さの中に浮かび上がってくる差異を明確にすることでもない。そこに写し出される郊外の風景は、批評家・明治大学准教授の倉石信乃氏が10+1誌でかつて指摘したように「格別の批評意識を介在させる必要なく生きられる、ニュートラルな日常空間に他ならない」のである。



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コンテンポラリーフォトグラフィとは何か?
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一. ホンマタカシ氏のコンテポラリーフォトグラフィをめぐる考察

今夜3331で聴いた「TOKYO FRONTLINE amana photo collection project Awarding Review and Talk」の審査委員である写真家のホンマタカシ氏と篠山紀信氏のコンテンポラリーフォトグラフィーをめぐる小さな議論が興味深かったので、現在金沢21世紀美術館で開催中の「ホンマタカシ:ニュードキュメンタリー」展をみた感想を含めメモしたい。
その議論とは本日まで3331で開催されていた「TOKYO FRONTLINE」主催によるフォトアワード公開審査におけるもの。公開審査には途中からの聴講だったのだが、篠山氏とホンマ氏によるコンテンポラリーフォトグラフィをめぐる議論はすべての応募者のなかから選考されたという十数名の写真家の作品のプレゼンテーションののち、篠山氏がホンマ氏に対して、まずコンテンポラリー写真って何か言ってよ、という言葉から始まったように記憶している(ちなみにこの賞は「コンテンポラリーアートとしての写真」新しいアワードという副題がある)。
このストレートフォトとコンテンポラリーアートとして写真を巡る議論は、今日始めて知ったのだが、かつて篠山氏がストレートフォトグラフィの賞といわれている木村伊兵衛賞の選考に際し、コンセプチュアルな視点をもった芸術写真家と知られる森村泰昌氏を賞に推しながら、反論に合い断念せざるをえなかった件にさかのぼるという。今夜の議論においてもホンマ氏が当の篠山氏に対して、10数年前のその事件に言及したことから加熱したようにみえた。ちなみホンマ氏は、近著である自身初の写真批評書「よい子のための写真教室 たのしい写真」において、コンテンポラリーフォトグラフィーとして自身の写真家としてのスタンスを明確に示している。コンテンポラリーフォトグラフィーをめぐる議論は、現在の写真家としてのホンマ氏のスタンスを示す重要な議論のように思われる。

一方、金沢21世紀美術館で開催中の「ホンマタカシ ニュードキュメンタリー」は、写真家として'90年代より雑誌や広告などの分野で幅広く活動を続けるホンマタカシ氏初の美術館での大規模な個展。本展は現代美術家として世界中から注目を集めるホンマタカシ氏の大規模展とあって国内外での注目度も高い。

先の篠山氏の質問を踏まえホンマ氏は今夜の選考に際し、ある写真家の作品に対して、すべてが等価値に撮られていて、コンテンポラリーであると説明したうえで、その「等価」を生み出す背景にある写真家の「コンセプト」そのものにふれ、日本の写真界では「コンセプト」がチラリとみえただけで、「写真」ではないと決められ、理解されてしまうと現在の日本の写真界のメインストリームに対する自身の感想を述べた。

「ホンマタカシ ニュードキュメンタリー」では、4つの展示室とひとつの仮設ブースで新旧作品を新たにプリントしなおしてその世界観をあらたに再構築した。最初の部屋に展示されたのは、北海道・知床の雪山にハンターたちとともに入って撮影したフィールドワークによる作品シリーズ「Trails」。だが、そこは単なる大自然を写しとったネイチャーフォトではなく作品には、雪山の斜面には倒木や、動物たちの足跡といった痕跡、何やら意味深な赤い血のようなものが飛び散っているのがみえる。タイトルからしてそうだが、そこに写し出されているものが何なのか。その手がかりとなるような説明的なものはどこにも見当たらない。ただ、純粋に美しい雪山の風景と何ものかの痕跡を前に鑑賞者は、さまざま想像を巡らすことができる。
この作品についてホンマ氏は「雪の上に赤いものがあるだけで純粋に美しいと思った」と語る。普段みることのない自然の奥深くで繰り広げられる光景を前に、鑑賞者は「まがまがしい」ものを感じとりながらも、純粋に綺麗だと思える作品になっているのが印象的だ。
同じ部屋には「Trails」と同時に発表されたホンマ氏自らの筆となるドローイング作品も展示される。こちらは荒々しい絵筆のタッチが残るアブストラクトな作品。そこにも写真作品と同様、雪や木の枝、血痕と思わしきモチーフが描かれているが、ドローイングになるといっそう意味や意図がそぎ落とされ、そのディテールだけが明確にみえてくるようになるから不思議だ。
「Trails」ひとつをみてもホンマ氏は日本語で写真がもつ「真を写す」という意味の問い直しを、コンセプチュアルな姿勢でおこなっている。



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それぞれのスーヴェニア
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明日、2月17日(木曜)から19日(土曜)の3日間(13時〜20時予定)、茅場町の森岡書店で「予備校生☆カフェ 予備校生たちのスーヴェニア」と題したイベントを開催することになりました。谷中旅ベーグルで開催し好評となった「予備校生☆カフェ」の出張版になります。

予備校生カフェはカフェといいながら、実はショップで、Negla春日井氏、旅ベーグル松村氏、C.A.G内山氏と僕の四兄弟が中心となって行なっているゆる〜いイベントです。これまで谷中旅ベーグルで二回、クラスカフリマで一回イベントを行なっています。予備校生たちは、そのいでたち、コスチュームにも特徴があります。セーラーを思わせるさわやかなボーダーのTシャツと、衛生観念の行き届いたドモホルンリンクルなヘッドキャップ。とかく世間的にはざまな存在の予備校生ですが、ちょっと大人な僕らはファッションも現代風に楽しむことを忘れません。

今回は「スーヴェニア」をテーマに茅場町の森岡書店にて、東京の東側でショップやアトリエを構えている仲間を中心にショップ形式で出店します。
思い思いの一箱にまとめられた、かつて観光地であればどの土産物屋さんで売っていたような日本のすこしキッチュなお土産品。素朴な味わいのあるロシアのスーヴェニア。ドイツや東欧のオブジェ。旅好きな予備校生が人生という旅の途中で集めた、自室の本棚の参考書にまじっておさめられたちょっといい感じの写真集などなど。

イベント期間、会場となる森岡書店には、予備校生たちが入れ替わり立ち代わり在廊する予定です。
あわせて、会期初日の17日(木曜日)には19時からオープニングイベントとして「予備校生たちのひそひそ話」と題したトークイベントの開催も決まりました。こちらにはマルクト塚本氏、Monday Books萬田氏、旅ベーグル「YO松村」、ライター加藤、他が登壇、松野屋松野氏によるLIVEでみなさまをおもてなしさせていただきます。当日はほかの予備校生たちも在廊予定です。
春も間近なこの季節、茅場町の森岡書店にて、楽しいお買い物とともにのんびりとしたお時間をお過ごし下さい。皆様のご来場を心よりお待ちしております。          一浪 加藤孝司


今回もバラエティ豊かな素敵な出店者さんにご協力いただいております(順不同)

谷中のclassico


鳥越の道具屋SyuRo


湯島のnico

千駄木の古道具Negla

駒形のin-kyo(中川ちえ氏)

FUNNNY UP(イラストレーター山本祐布子氏)

東神田のマルクト・チーム

谷中のセミオーダーの帽子屋さんC.A.G

駒形の写真家、萬田康文氏(Monday Books

駒形の写真家、大沼ショージ氏(凹凸舎

茅場町の古書&ギャラリー森岡書店


浅草のデザイン・ジャーナリスト、加藤孝司(FORM Story of design)

予備校生☆カフェ・コンセプト(2011年2月15日現在。なおコンセプトはころころ変わります)
「予備校生☆カフェ」は、人生の予備校生たち(=ふぞろいの林檎たち)が目的意識を持ちながら、自由な予備校生というプラットフォームのうえで、一対一のメリットを求めるのではなく、それぞれがそれぞれの良き関係性を結ぶことを目指しています。今回の「予備校生たちの☆スーヴェニア」では、予備校生たちがその人生の途中に出会った、さまざまな国の土産物、「いやげもの」を販売します。会期初日にはオープニングイベントとして、トークあり、お笑いあり、ライブありの、カフェ形式の楽しいイベントを開催します。皆様、お誘いあわせのうえ、森岡書店に遊びにいらしてください。

※盟友・旅ベーグルのBlogでも告知記事が掲載されています。→「hibi no awa
※写真:湯島のnicoさんの予備校生姿
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雑文


このブログを書きはじめたきっかけは、オランダのデザイナー、ヘラ・ヨンゲリウスとバウハウスであることは間違いがない。ヨンゲリウスはオランダのデザインがいまほど認知されていないときで、ようやく中目黒の燕子花でそのユニークピースが店頭に並びはじめたころだ。ヨンゲリウスが本国オランダで新進気鋭のアーティストとして登場したのが、'90年代初頭のドローグ登場とほぼ時を同じくしてのころだがら、およそ10年経ってからのことになる。
ヨンゲリウスの作品を実際に初めて見たのは、'90年代後半の千駄ヶ谷のトリコだった。
当時は北欧のデザインも今程認知されておらず、イームズが裏原宿を中心に人気を博していたころ。普通の白いプレートに結構なプライスがついていたことを記憶している。当時僕も裏原宿辺りで働いていたことがあるから、アメリカのミッドセンチュリーの家具は街のヴィンテージウェアのショップの什器としてよく目にしていた。
そう、北欧のデザインといえば、デンマーク生まれのパントンも歴とした北欧デザインだった。


つづく
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雑文
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 なんでも、とりあえずはじめてみることは大切だなあと思う。いま自分がなりわいとしている文章やデザイン批評に関しても、誰もが最初からライターでもジャーナリストでもないわけで、書く場所がないから書かないのではなく、何か伝えたいことがあるからまず書いてみる。それがこのFORMブログで、このブログを僕は5年ほど前にはじめました。

その頃はジャーナリズムというところとはかなり遠いところにいて、自分が好きなデザインには、街のなかにあるデザインショップでしか触れることができなかった。デザイナーという存在はまさに雲のうえの存在で、インタヴューすることはおろか、会うことすら出来ないと思っていた。

このブログを書き続けることで、それを読んでくれる人ができて、ブログを通じていまの仲間にも出会うことができた。ここに書き連ねた文章のようなものを、面白がってくれる人がいて、それをブログとは違うほかのメディアで読んでみたいといってくれた人がいた。そしてメディアでの仕事を通じてデザイナーや建築家といわれる人たちにも出会い、インタヴューすることもできるようになった。

つづく
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森田浩彰 タイムクエイク
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現代美術作家の森田浩彰のエキシビション「タイムクエイク」が中目黒のギャラリー青山|目黒にて開催中。
時を振り返り、記憶を刻み、呼び覚ますために記録されたいくつかの日付の記された彫刻。音をたてて壁を打つ角材。地中深くからの脈動によって揺れる天井に設えられた蛍光灯。この蛍光灯は最初からここにあったようにも見えるが、これこそが今回の森田の展示において、ひとつの象徴として機能している。その理由は展示会場に足を運んで確認していただきたい。
写真に写っている角材も、ただの角材ではない。


Hiroaki Morita :TIMEQUAKE

1.8.sat  - 2.5.sat.2011
AOYAMA | MEGURO
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