いつの頃からか東京の景色もすっかり変わってしまった。子供の頃から馴れ親しんだ佃島にタワー型のマンションが幾つも建ったときは時代の変化を感じたが、現在では20年前には思いもしなかったような早さで東京の風景は変わっている。
年の瀬に訪れた表参道。表通りは10年振りに復活したイルミネーションで賑わっていたが、裏通りに入ると、街にぽっかりと穴があいたような駐車場になった空き地が目立つ。
でも、その場所にかって何があったのかは、僕ははっきりと言うことが出来ない。
先日の夜9時頃、湾岸線をバイクで走っていたら遠くのほうの湾沿いにたつ幾つもの高層マンションのシルエットが見えてきた。速度を上げ走るたびに近くの景色は変わっていくのに、遠くに見えるタワーだけはそこにとどまりあまり動かない。ゆるやかにうねるカーブをゆっくりとまわると、遠くに見えていたタワーマンションの窓の明かりがランダムに、規則性なく灯っていることに気がついた。
夜のタワーマンションの外壁を規則性なく彩るランダムに灯る窓灯りは、現代社会におけるライフスタイルの多様性をあからさまに示しており、極めて現代を象徴するような東京の風景だと僕は思った。
タワーマンションは夜になるとそれぞれの窓に灯りがともるが、皆が在宅しているわけでないから全部が全部点くわけじゃない。むしろ全部の部屋に灯りがついていたら気味が悪い。
そのランダムに灯りが灯っているさまが象徴するのは、現代においては9時から5時まで的な労働のサイクルはもはや自明のものではなく、モダニズム以降のポストモダン社会においては人びとの生活のリズムもかってないほどに多様化しているということだ。夜半過ぎに目を覚まし、夜明けまで仕事をする人もいれば、日の出とともに起床し、夕方前には仕事を終える人もいる。
遠くからでも易々と見分けることのできる在宅と不在を示すタワーマンションの窓の明かりは、ポストモダン社会の多様性を体現していると思った。
でも果たしてそんな新興住宅地としての湾岸地域を見て、それを現在の東京を象徴する風景だと思ってしまう自分も短絡的ではないか?と自問をしてみることも必要だろう。これら東京の湾岸地域に建つタワーマンションをひとつの街としてみてみると、それはかっての郊外型の新興住宅街と同様のコンセプトをもつ「作られた街」としての存在感が大きい。機能別に区分けされ土地、ゴミ捨て場、コンビニ、住居区画、公園。これら新街区においてはそれらが極めて機能的に清潔にすべてが等価に扱われている印象をもつ。シチュエーションこそ異なれど郊外にみられるようなニュータウンがのっぺりと、猥雑な都市の周縁の風景にとりついたかのようだ。多様さをうけいれたはずの社会は、多様な人びとのニーズに応えるためにむしろ画一化していく。ポストモダン社会では多様さを装うほどに個別性は失われていくのだろうか?
僕は以前、青木淳さんのタワーオフィスをみてモダニズム建築の呪縛から逃れることができたのではないかと嬉々として書いたが、それはモダニズムを越えたのではなく、ポストモダン社会の多様性を示しているのだと、夜の湾岸に自然のなかの林のように林立するタワー型マンションのシルエットを見てあらためて思った。
2010年を迎えた現在、タワーマンションの栄華はもはや過去のものとなり、東京の東の方のふるぼけた街には、世界一の高さを誇ることになるであろう電波塔が建設中だ。
2010年代、僕らは自分たちが暮らす街に対してもっと意識的にならなければならない。無自覚はもはやていのいい単なる言い訳にすぎない。自分たちの暮らしを豊かにしていくものは、自分たちの日々の努力という小さな積み重ねに違いない。僕らにはいまそれができているだろうか。