大掃除の季節。部屋の模様替えをした。すると読みたくなる、みたくなる本があるから不思議だ。そんなときの僕の定番の本がこれ。スタイリストの岡尾美代子さんの「マニュファクチャーズ」。
manufactures=製品・製作物といった意味だろうか?
一般的にかわいい・おしゃれと言われている岡尾さんにしては素っ気ないタイトルである。
岡尾さん御本人が実際に自宅で使用している様々な愛用品が52点。
僕がもしこの様な本を出版出来るような機会があったのなら、自分の身の回りの品のなかから52点もの愛用品を実際に目の前に並べる事は可能か?
もしかしたらその数はそれ以上かもしれないし、それ以下かもしれない。
この様な場合、数が問題なのではなく質が重要なのは充分承知しているがそれでも、である。もしかしたら岡尾さんのファンの方にはこの本で選ばれた品々はさして珍しいものたちではないのかもしれない。それでも男の僕の目から見ても岡尾さんが普段の生活で使用されているものたちは充分に美しいストーリーにみちているように思える。だがそれはなぜか?
岡尾さんはものをかわいいとかおしゃれという自己の価値判断では選ばないと言う、もののもつ背景(それはどうにも変わりようのない絶対的なものだ)やそのものの持つストーリーに導かれるようにそのもの自体に強く惹かれるのだと言う。
それはかわいいやおしゃれという言葉の持つ主観的な価値判断とはまったく異なるものだ。僕がいいと思うからこれはいいのだ、という価値基準は一見するとその判断をする個人にとっては揺るぎようのない絶対的な事実にみえる。しかし人の心はうつろいやすい。それは誰もが冷静になって自らの心に問うてみれば分かることだ。
だがそのもの本来のすがたに着眼しその揺るぎようのないもの本来と向き合うことは決してたやすい事ではないし、それに気づかずにいることの方が多い。何故ならそこには容易く主観というものが頭をもたげて来るのだから。もの本来とは言い換えれば一個人の主観や判断や選択を許さない絶対的な<物自体>のことである。<物自体>と向き合うことはそのものが語るところのものに耳を澄まし耳を傾け静聴することである。
ものを選ぶ、ということは<物自体>と掛値なしに正面から向き合うことだ。
だからこそ僕はこの本にかわいいやおしゃれではなく<哲学>を垣間見るのだ。
僕は数年前にこの文章を書いたが、その頃から僕や僕自身をとりまく環境はだいぶ、変わった。そして僕のモノとの付き合い方も変わってきた。この数年で僕は、僕自身にとっての一生もの、一生よりそっていくモノとの関係は成立しづらい、とても難しいものだということが、なんとなく分かってきた。
それは今の僕が実感していることだ。時が流れれば、モノとの付き合い方も変わる。同じ物に対する僕の目線も変わる。しかし、それと同時に変化しないものもある。そんなことを大掃除をしながら考えている。