僕らはクラフトや民藝みたいなその評価基準に誰が作ったかなんて本来どうでもいいはずのものにも、誰がそれを作ったのかを、その物を評価するための判断材料にすることがある。
僕はプロトタイプにおいては、それを発案したデザイナーが多くの言葉を持つことに対しては違和感を抱かなかった。
だって自分のアイデアを製品化させるためには、より多くの人の共感を得るために、そのアイデアを製品化するための言葉の説得力みたいなものは必要だと思うから。
いや、違う。僕はまず、デザイナーが自分のアイデアを言葉にして発するという、ある意味危険をおかしながら、それでもデザインに対する概念的な言葉を含め、自分がデザインにしたものに対して言葉を発するということを、個人的に歓迎する。
僕はプロトタイプにおいては、それを発案したデザイナーが多くの言葉を持つことに対しては違和感を抱かなかった。
だって自分のアイデアを製品化させるためには、より多くの人の共感を得るために、そのアイデアを製品化するための言葉の説得力みたいなものは必要だと思うから。
いや、違う。僕はまず、デザイナーが自分のアイデアを言葉にして発するという、ある意味危険をおかしながら、それでもデザインに対する概念的な言葉を含め、自分がデザインにしたものに対して言葉を発するということを、個人的に歓迎する。
もちろんデザインには言葉云々より前に、それを欲しいと純粋の思わせるだけの即物的な,モノからにじみでるそそろ感じとか、実際に所有したらきっと気持ちいいんじゃなかろうかと錯覚せるような、思わせぶりに近い、けれども直感にうったえかける説得力が必要だと思っている、
そのデザインについて言葉で説明できること。直感的に自分にとって必要か必要でないか理解できるデザインをすること。それが誰かにとって、思い違いを誘発する幸福なデザインであること。
アートに鑑賞や触発は求めてもそれ意外の機能を僕は求めない。デザインには鑑賞や触発を含め、僕はその背景を求める。だから僕のデザインとの関わりは少し特殊なのかもしれない。
意味や意図を説明して理解してもらうことと、直感的に受け入れてもらうことの両方を僕はデザイナーであれはするべきだと思っている。
プロトタイプ展においても、会場に一時間位いて、素直にカワイイ、という人、そしてデザインに言葉を求める人、僕は観客側にも大まかにわけてその二種類がいると思った。
デザイナーはユーザーのその二つのニーズに応えることが必要だと僕は考える。
アートに鑑賞や触発は求めてもそれ意外の機能を僕は求めない。デザインには鑑賞や触発を含め、僕はその背景を求める。だから僕のデザインとの関わりは少し特殊なのかもしれない。
意味や意図を説明して理解してもらうことと、直感的に受け入れてもらうことの両方を僕はデザイナーであれはするべきだと思っている。
プロトタイプ展においても、会場に一時間位いて、素直にカワイイ、という人、そしてデザインに言葉を求める人、僕は観客側にも大まかにわけてその二種類がいると思った。
デザイナーはユーザーのその二つのニーズに応えることが必要だと僕は考える。
僕個人は買うことに対して、その僕の衝動を説得してくれる言葉を必要とするとさっき書いた。
だからそれを買うか、買わないかは、多分に僕自身の思い込みや、感情を移入出来る度合いによっても左右されている。
でも、何が僕をつき動かしているのか?その衝動を知ることは難しい。
その煩悩のようなものは、歳をとれば消えていくのかと思ったが、歳を増すごとに強くなっていくから、たちが悪い。
そこには物の値段のないプロトタイプと、実際の製品との違いは、明確にはないのだが、物にストーリーをこめるのは、ユーザーであり、デザイナーであり、その双方だと思っている。そのための言葉だと僕は思っている。
だからそれを買うか、買わないかは、多分に僕自身の思い込みや、感情を移入出来る度合いによっても左右されている。
でも、何が僕をつき動かしているのか?その衝動を知ることは難しい。
その煩悩のようなものは、歳をとれば消えていくのかと思ったが、歳を増すごとに強くなっていくから、たちが悪い。
そこには物の値段のないプロトタイプと、実際の製品との違いは、明確にはないのだが、物にストーリーをこめるのは、ユーザーであり、デザイナーであり、その双方だと思っている。そのための言葉だと僕は思っている。