FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

デザインと言葉


僕らはクラフトや民藝みたいなその評価基準に誰が作ったかなんて本来どうでもいいはずのものにも、誰がそれを作ったのかを、その物を評価するための判断材料にすることがある。
僕はプロトタイプにおいては、それを発案したデザイナーが多くの言葉を持つことに対しては違和感を抱かなかった。
だって自分のアイデアを製品化させるためには、より多くの人の共感を得るために、そのアイデアを製品化するための言葉の説得力みたいなものは必要だと思うから。
いや、違う。僕はまず、デザイナーが自分のアイデアを言葉にして発するという、ある意味危険をおかしながら、それでもデザインに対する概念的な言葉を含め、自分がデザインにしたものに対して言葉を発するということを、個人的に歓迎する。
もちろんデザインには言葉云々より前に、それを欲しいと純粋の思わせるだけの即物的な,モノからにじみでるそそろ感じとか、実際に所有したらきっと気持ちいいんじゃなかろうかと錯覚せるような、思わせぶりに近い、けれども直感にうったえかける説得力が必要だと思っている、

そのデザインについて言葉で説明できること。直感的に自分にとって必要か必要でないか理解できるデザインをすること。それが誰かにとって、思い違いを誘発する幸福なデザインであること。

アートに鑑賞や触発は求めてもそれ意外の機能を僕は求めない。デザインには鑑賞や触発を含め、僕はその背景を求める。だから僕のデザインとの関わりは少し特殊なのかもしれない。

意味や意図を説明して理解してもらうことと、直感的に受け入れてもらうことの両方を僕はデザイナーであれはするべきだと思っている。
プロトタイプ展においても、会場に一時間位いて、素直にカワイイ、という人、そしてデザインに言葉を求める人、僕は観客側にも大まかにわけてその二種類がいると思った。
デザイナーはユーザーのその二つのニーズに応えることが必要だと僕は考える。

僕個人は買うことに対して、その僕の衝動を説得してくれる言葉を必要とするとさっき書いた。
だからそれを買うか、買わないかは、多分に僕自身の思い込みや、感情を移入出来る度合いによっても左右されている。

でも、何が僕をつき動かしているのか?その衝動を知ることは難しい。
その煩悩のようなものは、歳をとれば消えていくのかと思ったが、歳を増すごとに強くなっていくから、たちが悪い。

そこには物の値段のないプロトタイプと、実際の製品との違いは、明確にはないのだが、物にストーリーをこめるのは、ユーザーであり、デザイナーであり、その双方だと思っている。そのための言葉だと僕は思っている。
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外では雨が降りそぼる中、やはりジャスパー・モリソンのクレートはいいなあと、パチリ。

昨夜はトークにお越しいただいた皆さまどうもありがとうございました。


ジャスパー・モリソンのザ・クレートを日常使いするようになってから、何かが少し変わってきたような気がする。それはこの何気ないワイン箱のようなシルエットが部屋にあるだけで、自分のデザインの才能や、レイアウトの捉えかた、そしてこれを選んだ自分に対して重要な何かを試されているような気がするからだ。
 昨年(2006)のミラノサローネで配られたというザ・クレートの小冊子を見ると、クレートはスツールになったりベッドサイドテーブル、時に本棚にはめ込まれたお気に入りを納めるためのボックスになったりする。それはいまどきの、流行の生活様式に従ったように見える。
 しかしジャスパー・モリソンが意図したものはそこからはうかがい知ることはできない。ザ・クレートはそれをディストリビュートするイギリスの若いメーカー「エスタブリッシュド&サンズ」との間に交わされた約束ごとが何であるのかを教えてはくれない。しかしエスタブリッシュド&サンズはブリティッシュメイドを標榜する極めて高いモチベーションと志をもったメーカーである。そこにはイギリス伝統のアーツ&クラフツ運動にみられる職人技の復権と擁護、そしてプライドが見え隠れする。
 ではザ・クレートとはなんなのか?字義通りにみればそれは木枠のことであり、ワインを入れたり果物を梱包するための輸送用の木箱を意味する。さあ、使い方は自由だ。あとはあなた方が考えなさい。いかようにも解釈は可能だ。ジャスパーは「エスタブリッシュド&サンズ」の為のベッドサイドテーブルを考案中、自宅で実際に使用している古いワイン箱以外の素晴らしいプロダクトの形を思い至らなかったという。これこそが今考えうる全てである。--それは使い勝手が良い。ワイン箱を前にしてはよりよいプロダクトの為の考察はほとんど無意味に近い。安く手に入るワイン箱をなぜ良質な木材を使って高い価格でリプロダクトする必要があるのか?すでにそのレベルで交わされた議論は無意味に近い。
 それは絶賛され、恥知らずとこき下ろされる。マルセル・デュシャンのレディメイド作品になぞらえ、最高の賞賛を受けたりする。すべてはfound objectのためだ。


※酒さん、ジャスパーの言葉を待つまでもなくあなたのワイン箱の使い方は正しい。
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Flat Project Exhibition


凸凹をフラットにしていくプロジェクト「フラットプロジェクト」の新しいエキシビションが開催される。
フラットプロジェクトからはこれまでも幾度か作品が発表されているが、今回のエキシビションでは先日シボネで発表されたばかりの「Raftered」テーブルに加え、アンティークものをマテリアルにした新作が発表される模様。
個人的には先日シボネでみたRafteredの、プロダクトとして完成度はまさに一点もののオブジェのようだと思い、一人会場でうなってしまった。

凸凹の床にエポキシを流し込み、空間全体をフラットプロジェクトの作品にしてしまった恵比寿のブックショップ「Naddif」、廃棄される寸前の小学校の机をリファインした「フラットスクールデスク」、エポキシの濃淡でフラット面にボーダーのシルエットを浮かび上がらせた「Raftered」。
回を重ね、エポキシを塗り重ねるたびに明確にかつ、熟成されていく長坂常となかむらしゅうへいによるフラットプロジェクトのコンセプト。一見、自身の建築作品とは異なるようにみえる長坂常の多様な作品世界について、一度話を聞いてみたい、最近はそんなことばかりを考えている。



Flat Project Exhibition

長坂 常 x なかむらしゅうへい
2009.11.20 (fri) ー 12.19 (sat)
場所: Happa   目黒区上目黒2ー30ー6
11:00-21:00

写真:スキーマ建築計画
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青、黄、赤


秋田道夫さんによるデザイン展、「新東京百景ー信号編が青山のNOW IDeA by UTRECHTで今日からスタートしました。僕も早速雨のなか明日のトークの下見がてらでかけてきました。ユトレヒトのオーナー江口さんもつぶってましたが、信号機って大きいのね、という印象。
決して広くはないユトレヒトの展示空間に歩行者用信号機が5台、すべてリアルに点滅しています。個人的に一番気に入ったのが上の写真の歩行者用信号機。楽しいですね。こんな信号、いままであったのかな?とにかく楽しいです。明日、秋田さんに聞いてみよう。

ということで、明日本展のオープニング記念イベントとして、19時より1時間、秋田さんとトークをします。前回のトークが「この10年」でしたから、今回はさしずめ「これからの10年」。
秋田さんのデザインの話から始まって、公共デザインについて、そして信号、建築へ、話は広がっていくことになると思います。今回はスペシャルゲストをお迎えします。建築家の谷尻誠さんです。谷尻さんは先日のDESIGNTIDE2009では昨年に引き続き、空間のデザインを担当しました。タイド後、初の公の場でのトークになるので、そこらへんの印象も聞いてみようと思っています。


場所:NOW IDeA by UTRECHT (青山)

OPENING PARTY & TALK  11.18 wed 19:00~20:00でやります。ぜひお越しください。

信号についてのmonologe:(おまけ)

小さな頃から僕は街のデザインなんとかしてくれよ、と思っていました。例えば町中に電線が張り巡らされた風景や、無秩序に建物が建てられた雑多な風景なんかに。憧れの外国の都市の風景なんかを写真でみると、意外にすっきりしているのは街中に電線がないから。電線がないだけで街の風景はすっきりして見える。
でも最近自分の地元である浅草は都内有数の観光地だからか、景観にうるさくなつてきていて、なんか通りが見通しがいいなあと思ったら電線が地中化されていたり、建物の外観が良き"下町"風に整えられている。そうするとなんだか街の風景がへんに納まりが良くなりすぎて逆に不自然な感じがしてくる。
東京というか、日本"らしい"風景は意外にも、街中に張り巡らされた電線や、ぼこぼこした不均一な建物の連なりでできている、そんな混沌とした街の風景の方が今では逆に我が国日本らしくて自然に見えてくるようになる。
公共のデザインって、意外にもそこに住んでいる人にはあまり、理解されていない。
公共、といってもさまざまで、例えば街中にたってぐるっと見渡すだけで、信号を始め、ガードレールや公衆トイレ、ベンチなどなど、いろいろな物がある。
あるいは建築も、僕らにとっては公共のデザインに違いがない。
そこでスリムな信号機ですが、僕はそのこれまでとは一風変わった信号機をはじめて街で見たとき、ちいさな違和感として気づいたんですね。なんか違うと。
でもそれは嫌な違和感ではなく、きれいだな、と正直に思った。これまでの街の信号には、その上に鳩がとまって信号全体がフンだらけのものもあったし、フン害を防ぐために有刺鉄線がぐるぐる巻きにされた信号もあった。新しい信号機なら、スリムで、その上に鳩もとまることができないなとか思ったり。
赤、黄、青。青、黄、赤。信号は僕らの身近にある。そんな身近で毎日必ずみている信号について、明日は少しみんなで考えてみたいと思っています。
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見ることの重要性


来週の水曜日19時より、青山のNOW IDeA by UTRECHTにてトークイベントに参加します。
信号を肴に、公共デザインについて語り合います。でも僕がナビゲーターなので話が脱線することは必至です。お楽しみに。
僕は見慣れた景色のなかに潜む「ふつう」について、問いかけをしてみたいと思っています。
で、「見ることの重要性」です。

NOW IDeA by UTRECHTの空間は本当に気持ちがよいので、空間を味わうためだけに遊びに来ても価値アリ、ですよ。

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適正価格について


藤崎さんのブログ「ココカラハジマル」の記事、「『適正価格の空洞化ー「ふつう」の背景』を読んで思いついたことがあるので少々メモをとってみたい。これは11月6日付産経新聞関西版夕刊に掲載されたものを後日藤崎さん本人がブログ用に加筆して掲載したものとのこと。藤崎さんのブログを読んでの感想はすでに、Twitterの方でリアルタイムでつぶやいたのだが、ここでは僕も少し補足をしていきながら書き進めていくことにする。この記事についてお話は、先日藤崎さんと浅草にある居酒屋「以志田」にて二人でした雑談のなかにも出てきたのだが、あらためて記事を読んでみると、デザインについて書く者のハシクレとしてとても考えさせられた。
でも、こういった内容の論考をデザインジャーナリストである藤崎さんが新聞で発表できるのは意義深い。

このテキストを読んでまず僕は当然のことながら、一般に言われている、「物」の「適正価格」というものに思いを巡らせた。
物の値段はそもそもその物の価値とは違うから、物の値段はそれを作るためのコストに関係してくる。それはわかる。どの材料で誰がどのような行程を経て物を作るか。それでだいたいの値段は決まってくる。そしてそこに更に、流通というものが加わる。
例えばアマゾンで書籍を買ったとき、新品で買うか、中古で買うか、もし中古で充分であれば無理をして高い新品を買う必要もないから、中古を買うとする。するとアマゾンで買った場合、だいたいの場合送料が無料であるが、中古業者で購入すると決まって送料が商品代金以外にも加算されることになる、そこで新品と中古の値段と価値をその商品の価値に秤にかけ、選択することになる。

少々横道にそれたが、商品にはそのように新品と中古品、そしてその価値の検討といった、その物の本来の価値とは関係のないところでの選択、というものも入ってくるから、まったく難しい。言い換えれば、新品と中古品といったモノのあり方の違いの比較だけで、適正価格というものの標準化は揺らいでくる。

だから僕個人においての物の価値は、物に対する必要性を前提としながらも、僕個人がもつ主観的な物に対する見方や価値観で決まる場合が多い。もちろん、その主観的な価値観は、他人のつけた価値観や、「トップセールス」といったたぐいの統計的な商品ランキングにも左右されたりする。しかし、そこには相対的な点において、「物」と「お金」を物々交換している感覚がある。
ある物に僕はいったい幾ら支払うことが出来るのか?当然だがそれはその時点での経済状況にも左右されるだろう。あるいは今後自分がどれだけのお金を仕事の対価として生み出すことができるのか?そしてそれをどれだけの期間継続していくことができるのか?
大きな買い物をする時ほど、その事に意識せざるを得ないのは、当然だ。

またまた本題から横道に逸れた。だが、物の価格という点において、いかにこれら個人が生み出す妄想とも幻想とも言える主観的な「価値観」を物にこめてしまう「ストーリー」を排除して、物の適正価格が付けられているのか?そのことはまったくもって不明だし、あり得ないのではないかと思えるくらい、現在の物の価格とは、本来、物が成立するための背景にある「もの作りのストーリー」とはかけ離れているし、逆にそのストーリーに依存しているともいえる。
いったい現在このような考え方がどれだけ生産する側で意識されているのか?

物にストーリーをこめることは、物本来の価値が見えにくくなってしまった現代において、「物」の価値を可視化するためには有効な手段であり、過剰に物のストーリーを喧伝することで物の価値を成立させているともいえる。それは時流でもあるが、ある種の物はその物の背景にあるストーリーを意識的に「隠蔽」することで成り立っていたりする。
それが藤崎さんのテキストのなかで指摘されている、「わけあって安い」の”わけあって”のわけを巧妙に隠し、物の値段で言い訳するための適正手段になっているのかなとも思う。「マクドナルドの期間限定&時間限定で行った0円コーヒー」や、甘くておいしいチョコレートには、「コーヒー豆を収穫する貧しい労働者の記憶はこれっぽっちも残っていない」のだ。

藤崎さんの論考はこのあと「空洞化された適正価格をデザインする動き」を適正価格というものが見えなくなってしまったことと、「ふつうという共同幻想の操作」、「ふつう」をデザインすることへの危惧と警鐘で締めくくられている。

もし価値=価格が、他のものとの比較によって生まれるのであれば、もはや価格や価値などは一元的なものにすぎず、物を買う行為は自分で稼いだお金と物々交換することにすぎない、と割り切ってみるしかすべはなくなってくる。
だから僕らはむしろ原点に立ち返って、物が生まれる背景や、その物のつくり手に対し、その物を買うことで評価する買い手の意思を尊重するのと同じくらい敬意をもって接する、そんなところから始めたらいいのではないかと思っている。

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この10年展


先週トークをさせていただいたプロダクトデザイナー秋田道夫さんの「この10年」展は、明日8日(日曜日)までの開催になります。

秋田さんのデザインをまとめて見たのは僕もこの時が初めてだったのですが、タイトなスケジュールのなかで練られた企画であっても、当然それを感じさせることのない、デザイナーがものを考える際の、ディテールのようなものが透けて見える好企画になっていると思いました。
いわゆる直感的な展示方法も、つくれらたものの輪郭をくっきりと際立たせているよにみえた。

『「デザイン」は物に宿る精神のようなもので、それは見る者の体調や気分によって変化したり、ゆがんだりするような、やわなものであってはならない。それは過去と現在をつなぎ、その先に未来を連想させるようなものであって欲しい。』

この10年展で、僕がこの展示におけるシンボルのように感じたのは、上の写真に写っている信号機の付属品であるボックスの置かれた姿である。その展示から僕は、デザインとは物に寄り添うようにある「事象」に対し、目にみえて、分かりやすい「しるし」をつけていく作業なのだと思った。

『デザインとは孤高な作業だが、そこには優れたジャーナリズムのような時代の裏側にあるものを見つめる視点がなければならない。』


プロダクトデザイナー秋田道夫 「この10年」展  
場所:天童木工PLY併設展示室
〜11月8日(日)


※トークイベントにお越しいただいたみなさん、どうもありがとうございました。18日のイベントも楽しみにしていてください。
11月18日(水)19:00〜 NOW IDeA by UTRECHT 
秋田道夫x谷尻誠x加藤孝司トークセッション(予定)
詳細は追ってご連絡させてください。
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