先日、イタリア在住でデザインに関するブログもされているビジネスプランナーの安西洋之さんと、元上智大学教授で社会学を専門とされる八幡康貞さんによる「欧州市場の文化理解とビジネスへの活かし方」というテーマのセミナーを聴いてきた。個人的には安西さんのミラノサローネのリポートなどを拝読し、日本における「ガラパゴス化」の現状と、デザインの観点からのビジネスモデルを聴ける機会と思い参加した。
会場となった麹町の日欧産業協力センターには、このblogでもおなじみのmetabolismさんや、今年のミラノサローネサテリテに出品したプロダクトデザイナーの橋本さんもおり、寛いだ雰囲気のなかでゆっくり聴講することができた。
お二人のレクチャーを聴いていて印象的だったのは、デザインに造詣の深い安西さんが具体的なプロダクトデザインなどの工業製品を例に出しながら、そこに潜むコミュニケーションの問題を炙り出したり、ヨーロッパ文化=ビジネス相手を知る目的は、そこにある文化に対して造詣を深める事ではなく、その際のコミュニケーションの質を重要視することだという主張。そしてその成功例としてスウェーデンのイケアや現代アートの村上隆を、あるいは疑問点として何故、レクサスあれだけイタリアのサローネで大々的にプロモーションをしながら、ヨーロッパ市場において量的にドイツのメルセデスのようには浸透していかないのか?あるいはイケアを例にしての美的側面ではなく、経済優先的な、そのずばりプライス表示のやり方にデザインの現実を見るというビジネスプランナーとしての現実的な視点など。
一方、社会学を学び文化人類学などのフィールドでも活躍される八幡さんが、1960年代初頭よりのドイツ生活に照らし合わせ、デザインに固有の問題解決の為の方法を、機能主義ではなく社会学の側面から語り、日本の江戸時代の文化を例に、そこに今の日本には欠けている世界に共通する「合理性」「論理性」を見出し、現在の日本人が日本人であることの特権のように引き合いに出す「日本人固有の繊細な感性」が、グローバルな論理的な思考からの逃避であると語っていたのが興味深かった。今回のセミナーではmetabolismさんのblogやそのコメント欄でも議論されているように、日本の文化やデザインを「軽さ」をキーワードに議論する場面が多々見られたのだが、それについての個人的な見解はまた別の機会に考えて発表してみたいと思っている。
安西さんはグローバルなビジネスの場において、日本人にさえも分かりづらい日本人に固有の思考や微妙なニュアンスを武器に、世界市場にアピールしていていいのだろうか?と警笛をならす。
そこに八幡さんが言う「日本文化のガラパゴス化」がある。無知識で恥ずかしいのだが、ガラパゴス化とは南米エクアドルに近い、世界遺産の島で、ここにしかいない固有種の生物が大陸とは隔絶した環境の中で独自の進化を遂げ、今も生息するという奇跡の島にならい、外部とは隔絶した文化と風習をもつことを言うらしい。
今回のセミナーにおいて問題視されたデザインビジネスにおける日本のガラパゴス化とは、まさに日本人に固有の言語でもってユニバーサルにビジネスを展開していこうとする、当の日本人のことを指している。おもにコンピューターの世界でこのようなことが言われているそうだが、今回の安西さんのレクチャーのなかで取り上げられていたカーナビゲーションの世界では、かって日本製品は圧倒的なシェアを誇りながら、国内の需要やニーズにのみ目を向け、その日本市場に特化した新製品開発をしてきたことにより、現在ではポータブルで低価格なオランダのTomTomというメーカーの製品に完全に世界シェアを奪われてしまった経緯をもつという。
かように日本のガラパゴス化は、単に日本人が自らの情緒の優位性を説いて浸っている間に、完全に世界のビジネス界では非現実的なものとなり、しいてはユニバーサルな市場からとり残されつつある現状を示している。
では今何が必要なのか?世界に通用する合理的な言語の確立こそが、日本が世界とパートナーシップを持つために必要なことだという。その合理性はヨーロッパの特権ではなく、日本に昔からある文化の一側面であることを、八幡さんは江戸時代の鎖国の合理性を説いた哲学者カントの文献を紐解きながら語っていた。哲学者カントは鎖国をしていた江戸時代の日本の情報を、港の酒場で港湾労働者と酒を飲み交わしながら、長崎出島に出入りしていた船員たちからナマの情報として仕入れていたというから、その哲学者としてのコミュニケーション力の高さは驚きだ。
そしてそんな世界の常識からの乖離は、ITの分野だけではなく、デザインの世界でも現実に起きているの現状だ、と社会学者の八幡さんの経験知の助けを借りながら安西さんは指摘する。
日本の高品質な製品はかって世界で抜群の評価を得、膨大な規模のシェアを獲得したが、それは今は昔の話で、現在世界の市場は自国のニーズを獲得するためにせっせと開発に勤しんできた高品質で多機能な製品によって、世界の市場からはそっぽを向かれ始めている。しかし、そもそもその日本人のニーズとは本来的に日本人であるわれわれが欲したものなのだろうか?現代の生産の根拠としての開発の為の開発による弊害が現れているのではないだろうか?
そこで安西さんたちはヨーロッパ文化の中に遍在する普遍性に着目する。それに対して日本の文化はこれまで固有性に拘りすぎてきたきらいがあるとも指摘する。ローカリティがユニバーサルなものとかけ離れたものではなく、ローカリティの中にユニバーサルな普遍性がある。文化の固有性の固執することなく普遍性に肉薄し、その為のプラットフォーム作りこそが日本の戦略において急務だ、など。
さて自分の身に置き換えて考えながら、では何故いま日本人が世界に対して、日本人であることの独自の感性でもって対することが問題なのか?今日のセミナーの会場にいた僕には、そこにある闇や、その向こう側にある一筋の光明はまだおぼろげにしか見えてこない。思考し、検証し、実証する書くこととは、その薄明かりの道を照らす光になりうるのか?
八幡さんの「言葉は論理」ということ言葉に希望を持ちながら、論理的な思考、論理的な道筋を思考の飛躍を伴いながら、僕は光の向こう側に向かうために言葉をたよりに何かを伝えていければと思った。