FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

郊外へ


著者が留学中に見たパリの郊外を題材に、小説家の内面とそこにある風景が紡ぎ出すセンチメンタルが、端正な文体に結実した優れたエッセイ(小説?)。

パリの郊外といえば、リュック・ベッソンの映画「サブウェイ」などが思い出される。正確にその映画がパリの郊外を映し出していたのかといえば、あまり自信がないのだが、ベッソンが監督したその映画は、僕にとってパリ郊外を強烈にイメージさせるものだ。

それとジャン・ジャック・ベネックスの「ディーバ」もそんな映画だ。
もちろんカラックスの「汚れた血」、それにルルーシュの「夢追い」。
「夢追い」はドヌーヴと、かってのゲンズブールの盟友ジャック・デュトロンの二人が主演の、パリーNYと、大人の恋の逃避行を描いた映画。
正確にはその印象的なラストシーンの舞台は、ニューヨークの郊外なのだが、東京の夢の島のゴミ処理場のような風景の中、フランシス・レイによるメロウな音楽が流れ、ゆっくりとした移動撮影でその視線の先にカメラが映し出す風景は、曇り空の下のニューヨークの摩天楼で、とにかくそのラストシーンが美しすぎる映画であった。

この『郊外へ』は、以前にこちらで紹介したホンマタカシさんの著書「たのしい写真」の中で、この本の著者である堀江さんへのホンマさんによるインタヴューが掲載されていて、興味を持ち、手にした本。「白水uブックス」の田中一光さんによる装丁もさることながら、その昔、文学青年だった頃の自分を思い出させてくれた本の匂いがなんだか今の気分にしっくりくる。また文学でも読んでみようかと思ったりした。

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多様性について


僕はそもそも人間ってそんなに個体差があるものなのかな?とも思う。
むしろ世の中の複雑さは、実際にあるのかないのかわからないようなそんな微妙な差異、そんな多様さを前提することによって拵えられたシステムによって生じてしまったのではないか?そんなふうに考えるときがある。

現に僕らはヨーロッパやアメリカ、中国やインドなど、この地球上に現存する、僕ら日本人とは異なる固有の文化をもつと言われる、それぞれの国に固有の食文化や生活習慣の中で育まれてきたものを、日々の生活にうまく取り入れることによって、実生活に有益な夢のある快適な暮らしをしている。だとすれば僕らは、そもそもそんな異なる文化やそこに生まれる価値を潜在的に知っているといえるのではないだろうか。ならば、それを知らないと思うところからスタートするのが昨今の世界ビジネスというものらしいのだ。

文化的なものや力、先時代的なものが優位性をもった時代もかってあったが、現代ではどの国の人びとにとっても、自分たちの暮らしに有益なものは、最初経済性優位の下に認知されるようだ。
それは自分たちの技術の高さや、知見の深かさがまずもって優位性を持っていた時代の先進国による競争力を誇示することをともなった先を見据えた目標とは異なり、もはやそんな自らの力を誇示する意思ももたない。
そんな目にも見えない経済性は誰もが少し努力すれば手に要れられるような顔をしているだけに、個人のエゴや私欲に結びつき、それを煽りながら、現代における「いかに儲けるか」は、多くの人にとって最大の関心ごとの一つになっている。

それはちょうど、まだ訪れたことのない国々を空想のなかで旅することに似ている。彼らにとってリアリティとは、そんな人間の空想のなかにもあると考えるべきなのだろう。僕が興味があるのは、そんな市場がどうとか、マーケッティングがどうとか、そんなそもそもリアリティのないものをさもリアリティがあることのように真剣に考えている人の頭の中、そしてそれが本当にリアリティを持つようになってしまった今の世の中についてである。いいかげん僕らはもっとシンプルに誰もが分かるような方法で、物ごとを考えることから始めてもいいのではないだろうか?
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にっぽんの郷土玩具 ー これもデザイン


僕も編集で協力させていただいた本、「FOLK TOYS NIPPON ー にっぽんの郷土玩具」が今週末に発売になります。

ちいさな頃におじいちゃんの家や、近所のおばさんの家に普通にあった素朴な作りの玩具たち。家族旅行で出かけた旅先のお土産屋さんで普通に売られていた、その土地に暮らす人びとの手によって当たり前に作られていた郷土玩具たち。
驚きと不思議さとともに、子どもだったぼくらの目を楽しませてくれていた田舎のちいさな土産物屋の棚や、ぼくらの家の飾り棚には、今ではかわいくてファンシーなものが溢れているけど、それらは昔ながらの郷土玩具や手作りのオブジェたちが持っていた、この国にあるべきとこと、そこにあるべき必然性を幾分か失っていると思う。

昔ながらの物語りや意味をもったにっぽんの郷土玩具たちは、ぼくらが気づかないうちに静かにひっそりと、今目の前から消えようとしている。
デザインの観点からもぼくらは、日本に古くから根づき、親しまれてきたそんなものたちの良さを知るべきだと思う。この本がそれら伝統によってぼくらの身体の中にしみ込んでいるこの国の良さを楽しみながら知る、そんなひとつのきっかけになればと、この本にすこしだけ携わった人間の一人として僕は願っています。

担当させていただいたコラムページでは、僕が大好きな建築家の一人である中山英之さんに執筆をしていただきました。しかも、中山さんにはご自身のコラムページ用に写真撮影とスケッチをこの本のためにお願いしています。

それとこの本の中のイマジネーション溢れる印象的なちいさな女のコをモデルにしたイメージ写真は、中山英之さんの処女作「2004を撮影した写真家の岡本充男さんが担当しています。岡本さんの写真は、むかし夢中で読んだルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」の世界を想起させる素晴らしいものです。もう一人の写真家は大竹昭子さん編著の「この写真がすごい2008」にも写真が選ばれている田中雄一郎さん。アートディレクションは2008年JAGDA新人賞を受賞された小杉幸一さんです。
若い才能がたくさん詰まった本です。ぜひ手に取ってみてください。


FOLK TOYS NIPPON ー にっぽんの郷土玩具
木戸昌史 編著 
近日発売

オフィシャルサイトが立ち上がっています→ click
amazonはこちら→ click

※写真の郷土玩具は、アイヌのイナウ技法による山形県米沢市笹野に千数百年前から受け継がれてきた「古代 笹野一刀彫」によるお鷹ポッポです。
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B面がA面にかわるとき


『B面がA面にかわるとき』
長坂 常

展示期間:〜6月14日(日)まで
NOW IDeA by UTRECHT
architecturephoto.netに記事が掲載されています。

展示会より、フラットテーブル。天板がてかてかに光っていて、向かいにあるサッシがきれいに写り込んでいます。

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光の向こう側へ


先日、イタリア在住でデザインに関するブログもされているビジネスプランナーの安西洋之さんと、元上智大学教授で社会学を専門とされる八幡康貞さんによる「欧州市場の文化理解とビジネスへの活かし方」というテーマのセミナーを聴いてきた。個人的には安西さんのミラノサローネのリポートなどを拝読し、日本における「ガラパゴス化」の現状と、デザインの観点からのビジネスモデルを聴ける機会と思い参加した。
会場となった麹町の日欧産業協力センターには、このblogでもおなじみのmetabolismさんや、今年のミラノサローネサテリテに出品したプロダクトデザイナーの橋本さんもおり、寛いだ雰囲気のなかでゆっくり聴講することができた。
 
お二人のレクチャーを聴いていて印象的だったのは、デザインに造詣の深い安西さんが具体的なプロダクトデザインなどの工業製品を例に出しながら、そこに潜むコミュニケーションの問題を炙り出したり、ヨーロッパ文化=ビジネス相手を知る目的は、そこにある文化に対して造詣を深める事ではなく、その際のコミュニケーションの質を重要視することだという主張。そしてその成功例としてスウェーデンのイケアや現代アートの村上隆を、あるいは疑問点として何故、レクサスあれだけイタリアのサローネで大々的にプロモーションをしながら、ヨーロッパ市場において量的にドイツのメルセデスのようには浸透していかないのか?あるいはイケアを例にしての美的側面ではなく、経済優先的な、そのずばりプライス表示のやり方にデザインの現実を見るというビジネスプランナーとしての現実的な視点など。
一方、社会学を学び文化人類学などのフィールドでも活躍される八幡さんが、1960年代初頭よりのドイツ生活に照らし合わせ、デザインに固有の問題解決の為の方法を、機能主義ではなく社会学の側面から語り、日本の江戸時代の文化を例に、そこに今の日本には欠けている世界に共通する「合理性」「論理性」を見出し、現在の日本人が日本人であることの特権のように引き合いに出す「日本人固有の繊細な感性」が、グローバルな論理的な思考からの逃避であると語っていたのが興味深かった。今回のセミナーではmetabolismさんのblogやそのコメント欄でも議論されているように、日本の文化やデザインを「軽さ」をキーワードに議論する場面が多々見られたのだが、それについての個人的な見解はまた別の機会に考えて発表してみたいと思っている。
 
安西さんはグローバルなビジネスの場において、日本人にさえも分かりづらい日本人に固有の思考や微妙なニュアンスを武器に、世界市場にアピールしていていいのだろうか?と警笛をならす。
そこに八幡さんが言う「日本文化のガラパゴス化」がある。無知識で恥ずかしいのだが、ガラパゴス化とは南米エクアドルに近い、世界遺産の島で、ここにしかいない固有種の生物が大陸とは隔絶した環境の中で独自の進化を遂げ、今も生息するという奇跡の島にならい、外部とは隔絶した文化と風習をもつことを言うらしい。
今回のセミナーにおいて問題視されたデザインビジネスにおける日本のガラパゴス化とは、まさに日本人に固有の言語でもってユニバーサルにビジネスを展開していこうとする、当の日本人のことを指している。おもにコンピューターの世界でこのようなことが言われているそうだが、今回の安西さんのレクチャーのなかで取り上げられていたカーナビゲーションの世界では、かって日本製品は圧倒的なシェアを誇りながら、国内の需要やニーズにのみ目を向け、その日本市場に特化した新製品開発をしてきたことにより、現在ではポータブルで低価格なオランダのTomTomというメーカーの製品に完全に世界シェアを奪われてしまった経緯をもつという。
かように日本のガラパゴス化は、単に日本人が自らの情緒の優位性を説いて浸っている間に、完全に世界のビジネス界では非現実的なものとなり、しいてはユニバーサルな市場からとり残されつつある現状を示している。
では今何が必要なのか?世界に通用する合理的な言語の確立こそが、日本が世界とパートナーシップを持つために必要なことだという。その合理性はヨーロッパの特権ではなく、日本に昔からある文化の一側面であることを、八幡さんは江戸時代の鎖国の合理性を説いた哲学者カントの文献を紐解きながら語っていた。哲学者カントは鎖国をしていた江戸時代の日本の情報を、港の酒場で港湾労働者と酒を飲み交わしながら、長崎出島に出入りしていた船員たちからナマの情報として仕入れていたというから、その哲学者としてのコミュニケーション力の高さは驚きだ。
そしてそんな世界の常識からの乖離は、ITの分野だけではなく、デザインの世界でも現実に起きているの現状だ、と社会学者の八幡さんの経験知の助けを借りながら安西さんは指摘する。
 
日本の高品質な製品はかって世界で抜群の評価を得、膨大な規模のシェアを獲得したが、それは今は昔の話で、現在世界の市場は自国のニーズを獲得するためにせっせと開発に勤しんできた高品質で多機能な製品によって、世界の市場からはそっぽを向かれ始めている。しかし、そもそもその日本人のニーズとは本来的に日本人であるわれわれが欲したものなのだろうか?現代の生産の根拠としての開発の為の開発による弊害が現れているのではないだろうか?
 
そこで安西さんたちはヨーロッパ文化の中に遍在する普遍性に着目する。それに対して日本の文化はこれまで固有性に拘りすぎてきたきらいがあるとも指摘する。ローカリティがユニバーサルなものとかけ離れたものではなく、ローカリティの中にユニバーサルな普遍性がある。文化の固有性の固執することなく普遍性に肉薄し、その為のプラットフォーム作りこそが日本の戦略において急務だ、など。
 
さて自分の身に置き換えて考えながら、では何故いま日本人が世界に対して、日本人であることの独自の感性でもって対することが問題なのか?今日のセミナーの会場にいた僕には、そこにある闇や、その向こう側にある一筋の光明はまだおぼろげにしか見えてこない。思考し、検証し、実証する書くこととは、その薄明かりの道を照らす光になりうるのか?
八幡さんの「言葉は論理」ということ言葉に希望を持ちながら、論理的な思考、論理的な道筋を思考の飛躍を伴いながら、僕は光の向こう側に向かうために言葉をたよりに何かを伝えていければと思った。
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