FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

すみだ北斎美術館

墨田区北斎館(仮称)基本設計プロポザール(審査委員長、倉田直道氏)が開催され、3月20日に墨田区役所で行われた第一次審査通過者10名による公開プレゼンテーションと最終審査となる第二次審査の結果、最優秀者に株式会社妹島和世建築設計事務所案が選ばれた。
北斎館が建てられる墨田区は東京の東エリアに位置し、浅草や日本橋などの昔ながらの繁華街も近く、昨今では2011年に完成の新東京タワー通称東京スカイツリーが建設中など、これまで六本木や青山など西エリアに集中しがちだった都市開発の新しい流れを生み出しつつある、いま密かに活気のあるエリアである。

墨田区役所で今回のプロポザールの応募作品中、最終選考に残った10作品のパネル展示があると聞きつけ、早速出かけてきた。
墨田区のホームページや、本パネル展示会場に掲出されていた資料によると、本プロポザールには国内176名からの提案書の応募があったことが記されている。
建設地は先日の記事でもレポートしたように、墨田区内にあるJR両国駅近く総武線の線路沿いにある巨大な遊具のある緑公園に隣接した、現在区有地となるテニスコート。敷地面積は1,263.38平方メートル、わずかテニスコート二面分のコンパクトな敷地である。

最優秀案に選ばれた妹島和世建築設計事務所のデザイン案は、複数の建物がパズルのように組み合わさったような外観の、公園に面したエントランス部分に見えるくさび状のスリットが特徴の建築だ。
妹島和世建築設計事務所によるプレゼンテーションボードと、応募案に対する審査委員会講評を読むと、この案における公園と一体になるように計画された点や、ファサードのスリットから館内の様子が外から見通せるさま、外観の複雑な構成により内部空間に多様さを生み出すと同時に、その複雑さが町の景観を一変する力を持ちうること、見る角度によって様々な表情を見せる建物として多様性などが評価、あるいはデザインとして提案されていることが分かってくる。

例えば、ワンルームでありながら多様な空間としての表情をもつ企画展示室のイメージ。くさび状にあけられたスリットで公園とつながる1階部分のカフェやエントランスホール。外観上のアクセントにもなっている、高低のつけられた屋上部分に設けられた屋外テラスとつながる図書室。
随所に「外部」をキーワードに地域や周辺風景に馴染むことを、路地や縁側といった下町らしさと結びつけ、「内部」においても美術館という施設における展示される貴重な作品の自然光による悪影響と、維持管理に配慮していること。外壁を閉じながらも、この建築の多様な表情をつくっているデザイン上のチャームポイントでもあるスリットから、光をコントロールしつつ採り入れる案など、美術館という場所における管理された光を巧みに操作する必要性に対する検討と配慮が感じられた。

またパネルに描かれた北斎館における周辺の景色を映す金属パネルによる外壁のイメージは、先のSANAA.名義によるトレド美術館ガラスパビリオンと対比させてみることもできるような、下町に新しくつくられる建築と、その町並みとの連続した風景をつくり出すのだろうか?



JRの高架側、子どもたちが集う桜の樹が植えられた公園、テニスコートのある車道。この町は古くから職人の住む町だけに、建築とそれが在ることで変わっていく風景が、町並みだけでなく、この町で物を作りをする人々にいい影響を与えてくれる建築なのではないかと思った。

次点には、一階部分をピロティとして持ち上げ、そこにカフェやロビーを配置し、公園と地続きに連続し開かれたメインエントランスを持つ北山恒氏の案が選ばれている。
パネル展示をみるかぎり個人的には、透き通るファサードに抽象化された北斎画が、公園側や線路側に浮かび上がる、外観だけでも充分にアート性の高い四角い箱、外壁に透けるスロープをもつ小川晋一さんの案が印象に残った。

パネル展示と同時に正式名称も「すみだ北斎美術館」と決まり、これから4年ほどをかけて完成させるという。
今回のパネル展示はゴールデンウィーク前半の土日を含め、4月29日までの開催とのこと。場所は銀座線浅草駅からもアクセスの良い、隅田川沿いにたつ墨田区役所1階ロビー、すみだリバーサイドホール。
昨年末に同じくコンペ形式で隈研吾建築都市設計事務所案に最優秀案が決定し立て替えが決まった、浅草観光センターの最後の勇姿を見がてら、あるいはフィリップ・スタルクがデザインを手がけた「アサヒビール本社」も隣接しているので、下町建築探訪かねがね訪れてみてはいかがだろうか。



Architecture | permalink | comments(0) | -
光と影



光と影 新装版

エンボス加工の表紙もカッコいいです。
photo | permalink | comments(0) | -
SIGMA DP2


本日4月24日発売のSIGMA社によるコンパクトデジタルカメラ「SIGMA DP2」を昨夜某ショップにて予約してしまいました。発売日である今日には手にすることができそうです。
一眼レフカメラと同等のAPS-Cサイズの大型1400万画素CCD「FOVEON X3センサー」搭載のコンパクトデジタルカメラとして話題のDP2ですが、前機種になるDP1を1年間愛用してみて、満足しての購入になります。
個人的には一段階明るくなった41ミリ相当のF2.8レンズに期待です。これで少しは手ブレの嵐から解放されるのでしょうか。

※追記:DP2で試し撮りしてみました(上の写真です)。普通に撮影しただけでかなりのボケ味が楽しめます。しかもレンズも明るいです。同じ被写体をフォーカスしてみるとDP1だと3.2秒、DP2だとなんと1/4秒です。液晶も格段に彩度が向上しています。先月のPIEで触った試作機よりもボディの厚みが薄くなっています。なぜ?

SIGMA DP2
design | permalink | comments(0) | -
補色


現在開催中のミラノサローネで早くも話題の展示が、”補色”をテーマにしたデザイン展 COMPLEMENTARY COLORSだ。柳原照弘、坪井浩尚、倉本仁、参、沖恵美子といった今注目の日本の五人の若手デザイナーが新作プロダクトを発表する。
今回の展示会にはデザイナーが寄り合い作品を発表する、単なる合同展とは異なる極めてユニークな点がある。それは五人の若手デザイナーたちが自分たちのために、作品制作のコンセプトを掲げるディレクターを”逆指名”したことだ。
今回彼らが逆指名したディレクターは、毎日更新のデザイン・建築の情報サイトdezain.netや、リボンを使ったプロダクトレーベル、リボンプロジェクトを主宰、デロールコミッションズ名義で気鋭のデザイナーや建築家を起用し、アートとデザインを軽やかに横断する問題作を発表し、デザイン界に物議を醸してきた岡田栄造。彼が五人のデザイナーたちに与えたテーマは”補色”という、色そのものをテーマに作品づくりをすることであった(以上、architecturephoto.net寄稿の記事よりプレヴュー)。

補色をテーマにそれぞれのデザイナーがどうデザインに置き換えるのか。今回プレヴューで見た彼らの作品には、普段彼らの作品にはあまり見ることのない色鮮やかなデザインが提案されていた。
テーブルの構造となる脚を向かい合わせに、それぞれ引っぱり強度と座屈強度を補う部材を対面に配し、それを補色の組み合わせで表現した柳原照弘のプロダクトは、補色の色相環をそのままテーブルにしたように鮮やかだ。
坪井浩尚はCometと題したテーブルランプの支柱を補色で表現し、倉本仁によるRockはプリズムのようにカットされた複数の面が緩急のある異なった色を生み出す花器をデザイン。

かようにデザインとは自由な行為だが、環境であったり、コストであったり、テーマであったり用途であったり、さまざまな規制の上になりたっている。今回のデザイン展もあえてデザイナー自らディレクターを指名することで、自らのデザインに規制線を張っている。では、補色というテーマは五人のデザイナーたちにとって、どのような規制となったのだろうか?

プレヴューを見る限り、このために設えられたプロダクトはどれもディレクターである岡田栄造氏の術中にはまってしまったかのような、デザインとアートとも区別をし難い一点製作物のアートピースのように見えなくもない。だが彼らはこれら作品の発表の場を、世界最大のデザインの見本市ミラノサローネに選んだ以上、アートの向こう側に、プロダクトという境界線の上にひらりと舞い落ちるようなプロダクトをデザインしたのだろう。これは'80年代初頭に同じイタリアの地で衝撃とともに発表されたメンフィスの再来なのだろうか?あるいは、ゆえに果たしてこれをその発端となった行為も含めデザインと呼んでいいのだろうか?
東京からミラノへ。まだ見ぬデザインに思いを馳せながら、デザインとは何か?プロダクトとは、アートとは?そんな問いを抱えながら、我が身に置き換えてこれから考えてみることにしよう。


design | permalink | comments(0) | -
BEYOND ARCHITECTURE


建築・デザイン・アートの総合情報サイト「architecturephoto.net」に記事を寄稿させていただくことになりました。まずは上の画像をクリックしてみてください。

情報を伝える方法は様々です。視覚にうったえるもの、聴覚にうったえるもの、その素材も紙だったり電波であったり、光であったり闇の中であったり。送られる情報がもつ意味も多種多様です。
ものを書く僕に身近な問題でいえば、ウェブを中心にさまざまな情報をほぼ無料で瞬時に簡単に手に入れることができるようになった昨今、有料で物としてスペースをとるスローな紙媒体の存在意義が、現在の社会状況の中でのそのあり方そのものの意味や、批評性を中心に問われるようになってきています。

僕は紙媒体には他には変え難い意義や意味、紙でしか表現できない固有の良さがあり、その紙媒体がもつ批評や情報発信の意義や意味は、今でも十分に機能していると思う立場です。
ではなぜ発信する側も、その情報を受け取る側もその双方に物足りなさを感じているのでしょうか。僕はそこには昨今の人々の個人主義や、価値観の多様化が影響しているとは思いません。
僕は人間は本質的な点でそれほど多きな差異はなく、同じように人間らしい感受性をもち、善い情報、悪い情報を個人にとって都合のよいやり方で瞬時に的確に判断できる能力をもっていると思っています。
ウェブで出来る事、紙でできること、そこには区別も差異もなく、もしそこに足りないものがあるとしたら、双方にとって有意義な問題意識の共有可能性をもちながら、それを互いが無視して見ないようにしているようにみえることだと思います。

僕はarchitecturephoto.netは、建築やデザインに対する深い愛情が感じられるサイトだと思っています。それはただ一人の運営者によって運営管理され、そこに掲載される情報が収集されることで、その行為に嘘や偽りが入る余地のないことと関係しているのかもしれません。
architecturephoto.netでは、彼と同じように僕も深い愛情をもってまじめに、建築やデザイン、そしてアートを考えていきたいと思います。
BEYOND ARCHITECTURE | permalink | comments(0) | -
めし大盛りで


月末に福岡発のデザインイベントDESIGNING展を見に九州に出かけてきます。昨年春にはじめて、年に一度GWのこの時期に行なわれるこのデザインイベントを見に行ったのですが、期間中決して大きくはない福岡の街中のそこかしこで、デザインとはなにか?というような問いかけ、この街のためにデザインでなにができるのか、そんな気概の萌芽を感じることができました。

デザインで出来ることを僕たちはまだなにもできていないのではないか?
世界中で日々おこっているさまざまな出来事にたいして、僕はデザインがなし得る事の無力を感じるけど、だからこそ僕はデザインに夢をたくしてみたい。
社会を善くしようとするのも、悪い方向に導く行為も共にデザイン、といってしまえばあきらかに言いすぎだけど、僕はデザインの振る舞いひとつで、善くも悪くも社会はそのたびに確実に変わると思う。

HPをみるとまだ詳細は発表されていないようですが、今年は4月24日から5月6日の13日間の開催、テーマは「デザインで街を楽しくする」ということで、期間中には市内繁華街にあるデザインショップやカフェなどを中心に、さまざまなイベントや展示が行なわれることと思います。
地元福岡を中心に九州のクリエーターたちの仕事をまとまってみることが出来るめったにない機会だけに、名実ともに福岡発のデザインの一大イベントとして発展することを期待します。

昨年はメイン会場であるイムズでは、建築家谷尻誠さんの個展「拾う建築のデザイン」展も開催されていました。さて、今年は?
九州のみんさんにお会いできることを楽しみにしています。今回は北九州に脚ものばして、めし大盛りでうまいものを食べたいと思っています。


DESIGNING?
Diary | permalink | comments(0) | -
僕のなかのヤンキー


ヤンキーとファンシーの関係にしても、ヤンキーはキャラクター化されうるが、オタクはキャラクター化されにくいという考察も面白い。ヤンキーもオタクもファンシーなキャラクターは好きだが、たとえばそれがヤンキーが履いているおばちゃんサンダルや、おばあちゃんが着そうな柄物のシャツなど、ヤンキーのハードなイメージは意外にも実は女性的なイメージへの親和性が高い。それはオタクにはフィジカルな面で女性との結びつきが希薄なのに対し、ヤンキーには数あるヤンキー漫画を見ても分かるように、その存在において女性とのフィジカルな結びつきが非常に多いからのような気がする。
ともするとヤンキーのハードになりすぎなイメージを中和するためのおばちゃんサンダルのそのファッションへの流用は、歌舞伎者がそのファッションに女性物を流用することに似ている。歌舞伎もアナーキストとしてのヤンキーの源流である。
そしてこの本の中にも記述があるが、もし日本人の半分が潜在的にヤンキーだとするならば、現代日本人に顕著なファンシー趣味や、巷にあふれるファンシーグッズの意味もなんとなくわかる。
なめねこブーム以来のファンシーグッズの巷への氾濫、そして全国のみやげ物のファンシーグッズ化には個人的には危機感さえ感じる。本来、手工業であった工芸品や民芸品が幅を利かせていたみやげ物の世界に、工場での大量生産にむいたファンシーがとって替わったのは、おそらくヤンキー衰退の80年代前半と重なる。その頃からヤンキー趣味は、一部の特権階級の若者のものではなく、庶民のなかに「ファンシー」と姿を変えて深く広く浸透した。

僕が高校生当時が1982年前後だが、その当時、東京では一年年がたつごとにヤンキー度が減っていたことが目に見えてきていた。僕らの2年先輩にはソリ込みパンチパーマの先輩がかなりの割合でいたが、1年先輩になると少数派になり、僕らの学年になるとわずか一人であった。しかもその一人はツッパリ派パンチパーマでなく黒人ダンサーに憧れるある意味本物の"ヤンキー"志向をもった者であった。
流行歌に世相を重ねあわせると、物事は意外に分かりやすい。
僕が高校生当時の1980年前後、ヤンキーの彼らが聴く音楽も、学園の華であるバンド部の毎年4月におこなわれる新入生歓迎会でのライブや、3月の予銭会の舞台にたつバンド部の演目に如実に現れる。
僕が入学した1980年春の演目は、キャロルのファンキーモンキーベイビーから始まって、松山千春の長い夜、アナーキーのノット・サティスファイド、そして締めは高中正義のブルーラグーンであった。ちなみに高中正義をご存知ない方に説明すると、高中正義が描いた音世界は、大滝詠一の世界に近いのでしょうが、それはまさしく大黒埠頭に停留する車や、現在郊外のショッピングセンターの駐車場に停められている車の中にある極彩色の世界のアレです(僕は当時そんな認識でした)。
そして僕の代になると、サザンや横浜銀蠅、甲斐バンドやハウンドドッグ、マイケル・シェンカー・グループなど、和物と洋楽ハードロックが混在するようになる。しかも特筆すべきは、これらのなんの脈略もないジャンルの雑多な音楽が、同一のメンバーによって演奏されるのだ。パンチパーマーの3年生先輩がマイケル・シェンカーのリードギターを弾き、長髪の僕がそのサイドギターを担当するといった具合に。これは何も僕が通っていた学校にだけ特殊な事情ではなく、おおむねの都内学校の文化祭では同じような光景が繰り広げられていた。
そんな僕の高校時代の風景のなかに、ヤンキーの最後の光芒をみることも可能なのではないだろうか。
これ以降、パンチパーマーにヤンキーらしきものは都内の学園から除々に姿を消していき、ヤンキーらしさは一面では、男子学生の茶髪のサーファーや、腰にメディスンバッグを装着したブーツカットジーンズのチーマー姿に、女子学生のスカートは年々短く、そのあり方は変容していったようにみえた。

矢沢永吉しかりキャロルしかり横浜ギンバエしかり。あるいは尾崎豊はどうだろうか。窓硝子を叩いて壊してまわった尾崎豊もヤンキーなのだろうか。当時青山学院に通っていた尾崎は言い換えればヤンキーとオタクの端境期にいた、今風にいえば内向するヤンキーの走りであったのだろう。インテリが不良に走る方向は内向するか、ヤンキー自体を卒業するしか多分ない。とするなら中学生高校生当時、食べ掛けの給食のトレイやチョークが飛び交う教室の中で、わら半紙にツェッペリンやディープパープルなどの人物相関図を書き、ツッパリにパンチパーマにリーゼントでシンナーや飲酒でキャロルを聴きながら暴走するひとつ歳上の幼なじみを、少し冷めた目でみながらヤンキーミュージックではなくブリティッシュロックに走り内向していく僕は、もしかしたらインテリヤンキーの走りだったのかもしれない。
五十嵐さんも言っていたのだがこの本のなかの執筆者のなかには明らかな元ヤンはいない。そのことがこの本に書かれている内容の信憑性をいちじるしく下げるという根拠になるというならば、その批判は甘んじて請けるといっていた姿が印象的だった。だからこそタイトルに序説の二文字をいれたのだと。そしてその批判からあらたな根拠あるヤンキー論がうまれ、建設的な論争が生まれることを期待している。
僕もそんな同時代的な確たる根拠をもちながら、僕のなかにあるヤンキーとともに自分史を書ければ、と思った。


ヤンキー文化論序説



books | permalink | comments(2) | -
TOKYO BY TOKYO


土地のことはその土地の人に暮らす気の合う仲間に聞く、というのが限られた時間のなかでその土地を楽しむ秘訣のようで、僕はいつもよその町に出かけると、友人たちが生活のなかで長い時間をかけて培い築いてきた知識に頼ってしまう。皆さんいつもお世話になっています。
今回、目黒通りにあるホテルクラスカから出版された東京の街のガイドブック、その名も「TOKYO BY TOKYO」は、そんなわがままな僕に気の合う友人たちが教えてくれる、その町のとっておきの場所の情報を、一冊にまとめたようなそんなガイドブックだ。

東京生まれの人はこの街には少ない、とよく言われる。
東京とい街の良さは、わずか1日この街に滞在しただけで、この街を自分の街と思える、そんな既視感満載なところだろう。
逆にいえば、東京は東京を訪れずして語ることが出来るそんな街なのだ。
このガイドブックはそんな既視感満載の東京という街の裏路地を、その先をまだ誰も歩いていない、暗闇のなかを手探りで歩いているような、そんな謎にみちたガイドブックに仕上がっている。

だからすでに馴染みの場所を、ふんふん、と思いだしながらページをめくるのもいいし、行きたくもない、行ったことのない場所に思いを馳せてページをめくってみるのも楽しい。
僕もそんな東京案内のお手伝いをさせていただいています。
いつも訪れているそこは、僕にとってはとても身近な、等身大の自分に出会える場所です。僕はそんな身近な場所を、まだ会ったことのない友人たちに紹介したいと思いました。ぜひ手にとって見てみてください。

TOKYO BY TOKYO

※谷中のclassicoでも購入することができるようになりました。


books | permalink | comments(0) | -
足立区千住曙町堀切駅
TOWN | permalink | comments(0) | -
北斎の建築


稀代の浮世絵師、葛飾北斎生誕の地である東京都墨田区亀沢の地に、墨田区所蔵の葛飾北斎の作品や資料を展示する美術館の建設がきまり、先ごろそのデザイン提案競技がおこなわれ、最優秀賞に妹島和世さんの案が選ばれた。
墨田区の北斎町づくりの会のホームページによれば、北斎館建設の話は15年前にさかのぼる。その後計画は頓挫したが、2006年に同じ墨田区内、北斎館建設予定地から程近い場所に新東京タワー「東京スカイツリー」の建設が決まったことで、区の基本計画に北斎館の建設が織り込まれた、とのこと。
妹島和世さんのデザイン案については、まだ詳細を入手できていないので不明だが、東京で桜が満開の見ごろをむかえた先ごろ、北斎館建設予定地をネットで調べて、自転車でふらふらと散歩がてら見てきた。



僕の家がある浅草から、雷門の前を通り、駒形橋をわたって墨田区に入り、幹線道路である清澄通りを南へ下り、春日通り、蔵前橋通りを越えると亀沢の町に着く。このあたりは大正12年の関東大震災や昭和20年3月の東京大空襲では大きな被害をだし、一面焼け野原になった地域でもある。関東大震災で一番の被害をだした、当時の被服省跡には現在では震災祈念堂が建ち、当時の被害の様子を知る事ができる。
またこのエリアにはちいさな町工場が多く立ち並び、古くから物づくりが盛んな町でもある。自動車整備工場やカスタムバイクのファクトリー、大きな重機が設えられた町工場や、縫製工場やアパレルメーカーがひしめき、表立っては分からないが、昔ながらの抱き人形もこの町で今もひっそりと作られている。

そんな静かな町に江戸東京博物館ができたのが1993年のこと。葛飾北斎が生まれた現在の墨田区亀沢あたりにある、清澄通りと三ツ目通りをは結ぶ一本の道が整備され、北斎通りと名づけられたのが2000年ころのこと。その両国駅側の出口に江戸東京博物館は聳え立っている。
この巨大なお化け下駄のような建物を、悪く言う人はいまだに多い。実際近所にこののっぺりとして巨大な建物があったら、と思うと少し複雑な思いだ。しかし、下町らしいちいさなスケールの建物が立ち並ぶこのエリアに建つこの建物も万博のパビリオンにありそうな巨大な建築だとおもえば、なんとなく愛嬌を持って見えてきやしないだろうか。
ちなみにこの交差点に立つ信号機はプロダクトデザイナー秋田道夫さんデザインだ。



北斎館が建つこのエリアは、ちいさいが端正な表情をもった建築が建ち並ぶ、そんな町でもある。古くから残るモダンな建物も多い。
15年ほど前の下町ブームの頃は、このエリアもひっそりとメディアにとり上げられ、浅草などの商業中心のにぎやかなエリアとは異なる、町の表情が穏やかな下町として、結構アパレル関係者などにファンの多い町でもあった。
国道14号を越えるとちかくには小粒だがピリッと味のある舞台を見せる劇場ベニサンピットなんかの小劇場もあったり、イッセイミヤケのA-netもある。あとすこし足を伸ばせば現在では現代アートのギャラリーがひしめく清澄白河も近くだ。



北斎通りの街灯のたもとには街灯り北斎ギャラリー、と名づけられた北斎の絵がはめ込められ、通り全体が北斎のイメージに統一されている。
北斎館の建設予定地は墨田区のホームページによれば、現在緑公園として整備されている一角にある二面のテニスコートとなっている。
一番上の写真が緑町公園だが、遠くに見えるフェンスの向こう側がそれにあたる。

訪れた日は公園に植えられた20本あまりのソメイヨシノが見事に満開で、ご近所らしき人々でかなりの賑わいを見せていた。公園で遊ぶ子供たちの数も多い。そして公園の公衆トイレの壁面に北斎の浮世絵がプリントされている。
テニスコートの向こうは総武線の高架になっており、ちょうどテニスコートの正面はスーパーマーケットが入居していた。この場所に妹島建築が出来ると思うと、下町生まれの僕にはなんともいえない違和感があった。うまく言えないのだが、わくわくするような良い意味での違和感。区もよくぞこの場所を選んだものだ。



北斎館の近く、両国駅に向かう清澄通り沿い、江戸東京博物館の向かいには、下町の人間なら知る人ぞしる天麩羅の名店「天亀八」もある。
子供たちが風のように駆け抜けるこの町の裏道にできる、東京下町初の妹島和世さんの建築。この場所の整備、着工、竣工にむけて楽しみは尽きない。

Architecture | permalink | comments(0) | -