FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

僕らのなかのヤンキー 1.


建設・不動産の総合サイトケンプラッツ上で、論争物議をかもした五十嵐太郎さんのヤンキー論が、多数の執筆者を得て一冊の書籍になり、その序説がつい先頃発表になった。
パリ生まれで東大に通いという、僕にとっては同世代の'80年代エリートのエスプリを感じさせる出自をもつ五十嵐さんがなぜ、ある世代にとってのまさに「生きざま」にもなっており、反体制カルチャーであるヤンキーを、普遍性を持つ概念のように語り、そもそも論議の俎上にのせるのか不思議でならなかった。

先日、ある縁あって田町の居酒屋でその五十嵐さんと呑む機会があり、おもむろに発売前の「ヤンキー論序説」をみせていただき、ヤンキー論を肴にお話しすることができたので、同世代の人間の一人として僕のヤンキー論をお話させていただき、五十嵐さんのヤンキー論とヤンキー観をうかがうことができた。
そもそもヤンキーの定義とはなんなのだろうか。いわゆるツッパリといわれる不良のことだろうか?それなら'70年代'80年代に社会問題にもなった、中学校や高校の教室のガラスを割ったり、校内で堂々とシンナーを吸っていた中学生や高校生のことだろうか。
ヤンキーという一般的な認識において分かりやすいところでは、学生時代の僕の身近にもいたツッパリの先輩たちが好きだったミュージシャンである、キャロルや矢沢永吉、もっと時代を下ってBOOWYや気志團についてもこの本では複数の執筆者によって語られている。
また、この本の出版の動機にもなっているようなのだが、なかばひきこもりながらかたよった言説を饒舌にかたるオタクとは違って、ヤンキーは対外的に社会的な言葉を発しないというところがあって、ヤンキーの社会的な立ち位置を含め、なかなかその言説は公に語られることがない。オタクのなかにインテリアが存在するように、この国ではインテリヤンキーという存在がいるにはいると思うのだが、その存在は批評の表舞台にはなかなかでてこない。 だからこそ永遠の不良、というアイコンとして異質な存在感を放ち、ユニークなのが矢沢永吉の存在であり、当時、不良=ヤンキーといった、日頃テキストを読むことのなかった中学生や高校生がバイブルのようにしていた、その矢沢の著書として有名な「成り上がり」だろう。矢沢の言動は今でも、一見ヤンキーとは無縁にみえる人びとに対しても、一定の影響力をもっている事実がある。

僕もまったくもってヤンキー的なものとは無縁であったが、'70年代後半に当時中学生だった僕が、ひとつ歳上のツッパリの先輩と部活もせずに、6時限目の終業のチャイムとともにダッシュで家に帰り、テレビのスイッチを入れて観たのは、夕方4時の再放送枠で放映されていた萩原健一と水谷豊主演による、タイトルバックが印象的なテレビドラマ「傷だらけの天使」だった。
テレビドラマでいえば、もうひとつ当時のツッパリや不良たちが自分の身に置き換え、切実に共感し涙しながらみいったものがある。それは「3年B組金八先生」の第2シーズンの中のひとつのエピソード、「腐ったミカンの方程式」のなかでの、加藤優と松浦悟ら不良少年たちが放送室に立て籠り、教師たちの制止を無視して校舎に突入した警官隊に逮捕され連行される有名なシーンだろう。それらテレビドラマから見えてくるのは、’70〜’80'sの日本におけるトッポいカルチャーが、当時の若者の内に秘めたパワーから生まれたことだろう。

話を五十嵐さん編著の「ヤンキー文化論序説」に戻そう。本文中もっとも印象に残ったのは速水健朗氏の論考だ。かってフランスの社会学者ピエール・ブルデューは読書の傾向からその人の出自を規定した。たとえばアルチュール・ランボーを好む人はブルーカラーに多く、マルセル・プルーストを好むものはホワイトカラーであるなど。当時下町でランボー好きのインテリを気取っていた僕にはそのことはかなりショックでもあった。
この本では1968年当時の「あしたのジョー」と「男一匹ガキ大将」を比較して論じるくだりで、「あしたのジョー」が少年コミック雑誌としては先発で人気もあり、当時既に「巨人の星」というヒット作をもっていたヒットメーカー梶原一騎らによって描かれていたのに対し、かたや「男一匹ガキ大将」が、コミック誌としては後発の少年ジャンプに、雑誌に長編連載をもったことのない新人であるブルーカラー出身の本宮ひろ志によって描かれ、「あしたのジョー」が全共闘に代表される「エリートたち」に広く読まれ、「男一匹ガキ大将」が職工たちを中心に広く人気を集めていたことを論じるくだりは、町工場の多い下町育ちの自分の身に引き寄せて考えてみると興味深かった。
斎藤環氏の論考、ヤンキー文化と「キャラクター」も、ヤン車における外装の「強面」ぶりと内装の「ファンシー」さといった、ヤンキー文化の二重性をあらわにしていておもしろい。


ヤンキー文化論序説
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日暮れ待ち
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今日のジャーナリズム 勝手メディアの可能性 2


下劣、高尚、低俗、緻密、短絡、詳細、僕はいかなる勝手メディアにも同時代にたいするそれなりの批評性があると思っている立場だ。とくに現在ではウェブのなかにある「良識的な」ブログのなかにしばしばみられる、実名をもって表明された問題意識の数々は、現代社会の諸問題に対し同時代的で正当な批評になるし、仮に視点が偏ったり間違ったようにみえる批評であったとしても、それはそれ以外の正当さに目を向けさせるための批評になるだろう。
新しいジュウ年代の真摯な批評の一部は、そんなウエブのなかの勝手メディアのなかにあるが、社会に対し正当な批評性をもって語られる、それらメディアがもつ可能性を、仮にもメディアに関わっている人間であればいまや見過ごすことはできないはずだ。
ブログや2ちゃんねるなどで情報をむさぼり、あるいはたれながし、それを毎日毎夜それぞれの個室で見る世代にとっては、それがかっての新聞や雑誌と同じような意味をもち社会に関わるための情報源となっているはずだから。すくなくとも僕はそんな自負をもちながらこれらを書いている者だ。

最近お会いした建築ジャーナリストぽむ企画の桂さんが、ご自身のブログで勝手メディアについてお話されている。このときの建築家藤村龍至/TEAM ROUNDABOUT JOURNALとの議論で初めて勝手メディアなる言葉を知ったのだが、確かに僕がここでやっていることも勝手メディアだな、と思って、その示すところがすっと入ってきた。と同時に日々このブログを書くことに対して感じている責任感も実感として切実に身にしみて感じた。
「無数の解釈の群れ」たる茫漠とした広大なウェブ空間のなかで、単なる個人的な解釈に陥らない批評たること。しかしウェブのなかにある現実が、その同じ現実に対する大まかな粗筋でしかない以上、批評は単なる解釈をこえて、現実を真実味をもって現実以上にリアルに演出することも可能なのではないか?それは主観が見据える客観性をあらためて客観的な思考の俎上にのせて自己批判的に語ることにほかならない。
個人的には不特定多数の人々が異なる場所で、共同でひとつのコンテンツを作成するコラボレーションメディアや、桂さんが書かれていたニコニコ動画のような「非生産的」だが「楽しめて参加できる」メディアの可能性も探ってみたいとも思う。

特定のアーキテクチャを使用し、フリーで作成されるウェブ上のメディアとして信憑性を獲得し、信頼されている百科事典プロジェクトであるウイキペディアは、その内部における社会的モラルに基づいた自浄力が働いていることは周知のとおりだが、ウェブのなかで新聞や書籍と同じようにメディアとしての地位を確立しているブログやサイトには、その書き手の社会的地位に基づくモラルに委ねられるところが大きいゆえに 僕はそんな勝手メディアが自らのモラル以上のセキュリティの承認をえて、社会にひらいた批評性を持つときこそ、勝手メディアが社会に対し勝手メディアたる地位を得るのだと思う。


※写真は先日訪れた京都四条通り中之町辺りです
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Bookmark Nagoya


名古屋の町では年に一度の本のイベント、Bookmark Nagoyaが現在開催中。昨年も縁がありBookmark Nagoyaの開催と同じタイミングで名古屋にいましたが、今年も同じ時期に名古屋を訪れることができました。
結局、今回の訪名では市内を巡ることはしませんでしたが、明日と明後日は市内中心部にある昔ながらの商店街円頓寺商店街で、僕の地元ではおなじみの不忍ブックストリートで始まった一箱古本市も開催されます。

Bookmark Nagoyaは今月29日まで。
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源馬菜穂さんのカンバス


後ろ姿と横からのみの印象的な人物<モデル>の描きかた、そして普段街のなかで過ごしている限り見ることも意識することもない水平線=地平線を、画の構図の中央付近にすえ、また徹底した横位置によるカンバスの使いかたは、そこに描かれる対象の<存在>ではなく、描かれる対象の<時>を画のなかに封じ込め、本来絵画作品には描きえない時間をつむぎだしているようにみえるから不思議だ。

名古屋のflorist_gallery Nに源馬菜穂さんの絵を見に出かけてきた。
まだ寒さののこる昨年の2月と、桜の咲く4月の2度訪れたNは約1年経って、フラワーショップにある誰かのためにアレンジすることと、販売することを目的に置かれた植物、オーナーのみたてによってほぼ月ごとに定期的に開催される作家の個展のためによせられたアート作品とが、建築家谷尻誠さんの建築と溶け合い、無理のない自然で豊かな空間をつくり出していた。

源馬菜穂さんは若い女性画家だ。カンバスに筆が触れる瞬間がよみがえるような作画のいきいきとしたタッチ、カンバスの上のその絵の具の流れは、見る者に一瞬の時を封じ込めるものであるはずの絵画作品に、時の流れを想像させ、そこに期せずして描かれた「時」は、控えめにカンバスの中央に描かれた人物のうえに、わたしたちがいま生きている、その同じ現実の時間性を内在させることに成功しているようにみえる。

たとえその描かれた対象がある特定のモデルを持たず、そこに描かれた風景がこの世のどこを探しても実在しないものだとしても、源馬さんの絵を見る僕らはありありとそこにリアルを感じることができるだろう。



上の作品を予約させていただきました。

florist_gallery N
源馬菜穂 展
2009年3月7日(土)〜3月29日(日)
12:00〜20:00(木曜休・3/18・3/25・3/27は休廊)
入場無料
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今日のジャーナリズム 勝手メディアの可能性 1


ジャーナリズムの世界において21世紀の初頭ゼロ年代は、新聞や雑誌などの既存のメディアとともに、ウエブを中心にしたブログやBBS、2ちゃんねるなどのいわゆる勝手メディアによる(きままな)批評が台頭した時代として、その歴史のなかに位置づけられのではないかと思っている。

これまでの新聞や雑誌といったメディアによる執筆者の批評文を編集者による校正といった幾重かのチェックを経ることで、個人の社会や事象に対する考えが社会的な位置づけを得られる時代はそれはそれでまっとうな意味をもち、個人の言論が信憑性をもって社会にでるためのシステムとしてはこれからの時代も有効だろう。
しかし、ゼロ年代に顕著な勝手メディアにおいて、そのカッコ付きチエック機能が物理的にはずされ、公にむけての自由な言論が可能になったとき生まれたものは、それぞれの時代のニューメディアが偏見とさまざまな淘汰を経て生まれた進化論的な進化の文脈にはのらない、歴史の蓄積のないまったく新しい批評の空間なのではないだろうか。

旨いものの情報は雑誌や新聞のなかより早く、ブログや2ちゃんねるなどの勝手メディアによる口コミにのぼり、今日刊行されたばかりの書籍の批評、テレビの番組案内、イベントの批判はその日のうちに世界中のプライベートリビングで共有される。

確かに2ちゃんねるにみられる後先を考えない傍若無人な無責任な書き込みや、ブログにしばしばみられる自己顕示欲と主観だけのエントリー、歴史認識のあまい事実とは異なるエントリーはあとをたたないと批判される。
けれども一見客観的にみえる雑誌による新製品や商品案内の記事が、それ自体が誰かの利潤を生むための、対価を支払って客観性を装られた広告であることは今や誰もが知ることだ。

そんな経済に翻弄された政治の腐敗と同じような理由で、われわれと同時代のメディアの失効が語られるのであればそれは悲しい。もしかしたら今までじゃナーリズムの舞台として主流であった新聞や雑誌というメディアが、いまや真実よりも経済や利潤とわかちがたく結びつき、本来の意図を失ってしまっているとしたら、社会のさまざまな相関関係の背後と表に貼り付く矛盾と正当をつくはずの、編集者や執筆者がいるにも関わらず、彼ら自身が経済にとらわれて身動きがとれなくなっているとするならば、それは新しい10年代に向かって今こそ何か行動をおこさなければ、新しい10年代はゼロ年代の負の側面だけを担保したままに過ごす、ぬるま湯のような時代になるだろう。


※写真は写真家荒木経惟氏の生家がある三ノ輪です
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東京中央郵便局問題


東京丸の内に建つ東京中央郵便局の建て替え問題について、歴史的建築物との見解から、一部を残しての建て替えか、前面保存の方向かでにわかに世間を賑わしている。
いままであまり政府の側からおもてだってこのような建築物の保存が語られたことがなかっただけに、メディアでの報道も多く一躍建築保存の是非が注目度の高い問題として久しぶりにクローズアップされている。
以前にも一連の同潤会アパートの保存の問題がその取り壊しのたびにクローズアップされるということはあったが、こちらは集合住宅ということもあり住民の日々の生活のインフラの不備などの実際的な問題で、保存運動は一部の歴史建築物愛好家によるノスタルジーとして片付けられ社会全体の共通問題意識としてあまり浸透することはなかったのが残念であった。
そこで今回持ち上がった東京中央郵便局の保存問題だが、とうの言いだしっぺが昨今信頼を失墜しつつある政治家から語られるているということや、一政治家の思いつきと思われているところから、なかばこの件についての世評はちゃかしを越えないものも多くない。だがしかし、ここには現代的な問題の捉え方としてなかなか本質的な側面もあり、あながち思いつきですますことが出来ない発想をふくんでいるように思うのは僕だけだろうか。
とかく日本においては建築や町並み保存はノスタルジーの一言で片付けれてしまいがちだが、果たして本当にそうだろうか。

ここは建築を文化とし、あるいは芸術品などと同じように文化的なストックと認めるか、という点に争点がかかっていると思う。
いまの丸の内界隈における既存の建物の外郭だけ残して、新築するタワーに貼り付けるというやりかたは、まさに稀少動物の剥製とおなじではないか。建築のアイデンティティや未来にむけたヴィジョンのない、文化のコピペにしかすぎないのではないか。
近代以降の装飾のない「シンプル」な建築の保存はむずかしい、というが果たしてそのとおりだろうか。
妥協していまの遺跡の薄皮でタワーをくるむような情けないそんな建築の継承が成り立つとして、それはモダニズム時代の建築の一部までであって、モダニズム以降の建築保存の問題がこれからおこったときに、発想の飛躍であることを恐れずにいえば、たとえばせんだいメディアテークのような内部と外部がわかち難く複雑に結びついた有機的な建築の保存問題と向き合ったとき、どのような対処法をとるのだろうか。
それこそそのときこそ、どこそこで誰かが指摘していたようにそろそろ新しい建築保存の方法を考えるべきときなのではないだろうか。
昭和の時代まで歴史的なモダニズム建築の見本市場であった丸の内が平成の時代に入って不必要なまでに建て替え高層化していくなかで、近年の戦前の姿への東京駅舎の修復、そして今回の中央郵便局の問題。歴史と建築、歴史と都市が向き合う方法のひとつとして熟考されてもいい問題のような気がする。


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ある雑誌のもの語り
エスクァイア日本版が休刊すると聞きました。少なからずお世話になった雑誌です。
できることはすくないですが、ぼくも署名させていただきました。

雑誌が好きなら、本が好きなら、写真が好きなら、音楽が好きなら、文学が好きなら、是非。

ぼくが一番思い出深い日本版のエスクァイアの記事は、1988年9月号のセルジュ・ゲンズブールと俳優・奥田瑛二の対談「成熟した放蕩息子たち」。あのセルジュが奥田をして、「彼はオレの日本の息子」と言っています。

Forever Esquire『エスクァイア日本版』を復刊させよう!
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東京中央郵便局


ぼくも中央郵便局の保存問題について何か書いてみようと思っています。
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デザイン提案競技の意味
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