銀座のニコンサロンで開催中のエマニュエル・リヴァ写真展「HIROSHIMA 1958」を見てきた。これは先月末から今月上旬にかけて広島で開催された同名の写真展の東京巡回展だ。
タイトルを見ても分かるように、この写真展で発表された写真には1958年当時の広島の風景が写し出されている。
真新しいイサム・ノグチの西平和大橋、整備されたばかりの平和記念公園、いわゆる原爆スラムのある川辺の景色、市内に流れる六つの川のひとつ本川の河口に近い江波の町の人々。
エマニュエル・リヴァとは当時パリで舞台中心に活動していたフランス人女優で、世間的にはフランスヌーベルバーグの傑作映画、マルグリッド・デュラス脚本アラン・レネ演出の1959年公開「二十四時間の情事」の主演女優としてよく知られた存在だ。
ブリジッド・バルドーのように肉感的な女優、そしてジャンヌ・モローに代表される知性派と、一口にフランス人女優といっても当然のことながらそのイメージはさまざまだ。
リヴァはモローの系譜の知性派女優といったところか。ともに同じマルグリッド・デュラスの原作それぞれ異なる映画にも主演しているところにも共通項を見出すことができる。
そんな写真家でもない彼女が、50年前に映画撮影のために滞在中の広島で、膨大な数の写真を撮影していたことは
以前の記事で紹介した。その写真展が映画撮影から50年の時を経てついにこの冬、広島と東京で実現した。
1958年当時の広島の風景を白黒のフィルムに焼き付けた彼女の写真には、それまで当たり前でありながら、原爆という過去の記憶に覆い隠されていた、広島の人々の日常の、生き生きとした暮らしが写し出されている。
原爆投下前と後と同じように今もそこにある人々の暮らしは、とりたてて特別なもののない、なんの変哲もないものだ。それでも広島を訪れた異邦人が見た50年前の広島は、モノクロームの風景の中にありながら、青い空は青く、絣の着物の朱は朱に、カラフルな色を想像させるものであった。
時間の経過、今はもう失われてしまった風景、というノスタルジーの色眼鏡を外してみてもこれらの写真は響く人には響く、写真としての普遍的な価値をもっているだろう。
広島、ヒロシマ、ひろしま、HIROSHIMAと人は広島をさまざまに呼ぶが、もしこの映画と関連付けて広島を語るシネマフリークなら、一度は広島をちいさな声で「イホシマ」と言ったことがあるだろう。このロマンスとも反戦映画ともとる事が可能な映画の最後の最後で、日本人を総称して「HIROSHIMA」とエマニュエル・リヴァに言わしめたマルグリッド・デュラスの脚本で広島は、「H」を発音しないフランス語独特の発音によってイホシマになったのだから。
僕がこの写真展の開催にあわせて50年ぶりに来日した彼女の口から聴きたいと思っていた言葉とは、ほかでもない劇中で音楽のように印象的に響くこの言葉であった。
昭和初期に建てられたRC造の建築が多く残る銀座の裏道はどこか、この映画のなかに映し出される、百貨店「福屋」のある風景に似ている。
50年前の映画の中に映し出される風景のように、今も昭和なネオンが夜が明けるまで灯る、けばけばしい広島の夜の繁華街を、僕も何度も何度もさまよったりした。この映画への特別な思いも、あの夜の広島の風景が土地の記憶のなかに残る今の広島の街の風景も人も、これからもずっと僕にはあこがれの対象であり、いつも変わらない日常であることには今も変わりがない。
HIROSHIMA 1958