FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

DAGODA


デザインジャーナリストの藤崎圭一郎さんがスーパーバイザーを務め、フリーペーパーという形で先頃発行された雑誌「DAGODA」に関する展覧会、DAGODA展を上野の藝大に見に行ってきた。
DAGODAとは耳慣れない言葉だが、そもそもがダダイズムのDADAにGOを掛け合わせた造語だという。
DADA=ダダ(ダダイズム)は20世紀初頭に世界的な社会不安を背景に生まれた詩学を中心にした前衛芸術運動。それはスイスのチューリッヒにあった、とある酒場にたむろする芸術家たちが、なかば勢いで作り上げた芸術運動といえるものだ。その熱気は文壇を中心に世界中に波及し、日本にも高橋新吉や中原中也といったダダイスト詩人を生んだことでよく知られる。

ではなぜ今ダダなのか?
法政大学大学院システムデザイン研究科と美学意匠受講生、東京藝術大学デザイン科視覚・伝達研究室という2つの東京の大学が合同で企画した今回の雑誌と展覧会は、きっかけは大学で教育もされている藤崎さんだと思うのだが、そんな前衛芸術を祖にもつ運動が現代の大学を舞台におこっていることがなにより僕には興味深い。

展覧会の冒頭の宣言文の中で、DAGODAは単に雑誌の名前ではないないことが註釈されている。きっかけはフリーペーパーの形態をとっているが、これはひとつの芸術運動を標榜するものであり、単なる雑誌メディアではないことの宣言でもあるのだろう。
展覧会自体は藤崎さんのブログにも書いてある通り、雑誌発生のプロセスを示すものであり、表紙に使われたロゴタイプの幾つものスタディや、誌面作成のためのいくつかのプロトタイプが「過剰に」展示されている。
今回のDAGODAが思想的な背景をもつ本家ダダについては、1918年に発表された宣言文の原書とその訳文がコピーされファイルに収められ提示される。
雑誌というメディア作りにおいてその表現は質、量ともに過剰さを極めた、と書かれていたが、出来上った雑誌はすっきりとセンスよくまとめられており、フリーペーパーに使用された紙質のせいもあってか意外とミニマムな印象を僕はもった。語弊はあるかもしれないがウェブのコンテンツを見ているようなスマートさを感じ、テーマがテーマだけにもっと乱雑で荒々しくあってもいいような気がした。

なによりも僕にはポスターになっている扇情的なヴィジュアルイメージが強烈で、展覧会場でもそれがムービーとしてエンドレスでモニターに流れているのだが、これから先、そう遠くない未来におこることは人間の顔面の活躍筋がどんなに頑張っても表現しきれないというショッキングさを、お笑い芸人コロッケの人マネのように、瞼をメンディングテープで吊り上げて表現していることがユーモアさえ感じておかしかった。
想像もできない未来が僕らの未来には待っているかもしれないが、だからこそ、それを想像できる今のうちに何か行動をおこそうぜ、というようなメッセージをそのヴィジュアルから僕は感じた。

雑誌やフリーペーパーという形態、そして企画展の実現。内容に共感するかどうかはとりあえずさておいて、ここに提示された諸問題は現代を生きる僕らにとってまったくもって無縁なことではない。それゆえに目の前に今僕個人がやりたいと思っていることが実現されているのを見て、何もアクションを起こさない自分に苛立ちを感じるが、DAGODAは何か行動を起こすきっかけをそれをみた誰もに与えてくれる運動だと、今の僕にはそう思えた。
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アダム・シルヴァーマンのスカルプチャー


西海岸の陶芸家アダム・シルヴァーマンの陶器による個展、Adam Silverman "Nature Morte"が9月26日から10月18日まで、代官山のギャラリーTKG代官山で開催中だ。



アダム・シルヴァーマンは'90年代のスケーターカルチャーを牽引したカリフォルニアの陶芸家。2003年に自身の陶芸工房アットワートポッタリーを設立。日本の民藝などにも影響を受けつつ,カリフォルニアらしい抜けの感のある軽い陶器から、解けた溶岩やクレーターのような表情を持つ陶器、近年ではアートオブジェのようなスカルプチャー作品まで幅広く手がけている。

今回TKG代官山で発表された作品は、短い立ち話のなかで語ってくれたアダムの言葉を借りれば「ニューフロンティア」とのこと。今までのアダム作品に共通する釉薬を使いながらも、機能のない純粋なオブジェにこだわり、作品の質と強度、そして作家性を際立たせたアート作品になっている。陶器を焼いたブックケースのような四角い木製のフレームに無造作に納めたり、ある作品では固まった溶岩の固まりのようなオブジェを、四角い箱のなかでワイヤーで宙からつるしてみたりしている。

今回は妻でアーティストのルイーズも27日より駒場のギャラリー、NO.12 GALLERYで絵画作品の個展「YOKO IN GENEVA」を開催。イームズの時代からストリートカルチャーまで連綿と受け継がれてきたアメリカ西海岸のアートカルチャーの今を、肌をもって体感できる実り大き秋のスタートだ。



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サンキュー、アダム
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Makoto Yamaguchi Design


先日地元の友人である内山さんに麻布に移転した建築家山口誠さんの事務所のオープニングパーティに誘ってもらった。
通りから少し入ったところにある山口さんの新事務所は、前面ガラス張りのギャラリーのような空間だった。遅い時間に訪れたにも関わらず事務所は大勢の来客者でごった返している。入り口付近で談笑している友人を発見し、早速山口さんを紹介してもらう。建築家というよりも文学者や芸術家といったほうがぴったりくる印象だ。しかもとびきりお洒落でクールな。それでも話始めるとひょうひょうとした語り口からは、人を穿つようなところがまったく見受けられず、僕の話をしっかり聞きながらそれにこたえてくれる優しい語り口だ。

内山さんに事務所を案内してもらいながら、たくさんの友人を紹介してもらう。人の繋がりを大切にする内山さんらしく、紹介してもらう皆さんがオープンでフランクだ。



この空間の主である山口さんは若手といっても世界的なアワードの受賞歴もある有名建築家。なかでも「軽井沢の別荘/ギャラリー」は、大自然のなかに降り立ったスペースシップのような建物で、建築専門誌や一般誌でも目にする機会の多い名作建築。誰が見ても美しいと感じる完璧な環境にたちながら、クライアントの意向を十全に反映させたその建築は、建築の始まりを意識させつつ環境に馴染んでいるようにみえる。
近作「狛江の住宅」は外部に閉じた平屋風ながら、空気の流れを可視化したような曲線を内部に引き入れ、広がりのある多様な空間を実現している。そこに住む人の心持ちを豊かにしてくれる住宅は、どのような思考を経て生まれるのか?興味は尽きない。

デザイナーである山口さんの奥様が手がけたパーティーフードは、まさにフードデザインというべきインスタレーションに近いものだった。鳥の巣のように小枝を編んで器に見立てていたり、それがまた小さな建築を思わせる。
しばしフードデザインについての情報交換をさせていただく。料理もとてもおいしかったです。

岡田栄造さんがディレクションするリボンプロジェクトやデロールなどでプロダクトデザインも手がけている山口誠さん。10月末から五反田ソニックを舞台に開催されるプロトタイプ展では、山口さんの建築理念にも通じる無垢の木材を使った一点もののアイテムを発表する予定という。
建築とデザイン、そこに違いがあるのかないのか。僕はそれを知りたいといつも思っている。だから建築とデザインの双方を一手に手がける人にとても興味がある。
異なる敷地条件に対し、そのたびごとに新しい方法論で対処する建築という固有なもの。デザインを問題解決の方法と捉える山口誠さんの建築において、デザインの果たす役割はことさらに大きい。


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若手建築家のアジェンダ


台風一過の心地よい風がそよぐ広島市の中心を流れる元安川の川辺で行われた、『議論の場を設計する』連作シンポジウム「若手建築家のアジェンダ」。平和公園のふもと、世界遺産原爆ドームも目と鼻の先、市内最大の繁華街本通り商店街の近く、という絶好のシチュエーション。シンポジウム開始前から想像以上の聴講者が元安川に架かる橋のふもとにまで溢れ、若手建築家に対する注目の高さがうかがえた。
藤村さんの言葉による「何に基づいて、何を考えて、何を実践しょうとしているのかということを共有」することを主題とした今回のシンポジウムは、結論からいうと、それぞれの建築家の考え方の違いが明確になったシンポジウムになった。いかにして、なにがどう違うのか?それを僕なりの視点から箇条書き風に少し振り返ってみたいと思う。

それぞれの10分ほどの自作についてのレクチャー後の第二部の冒頭で、ある土地に対する固有性を議論のなかから浮かびあがらせよう、と宣言した藤村さん。それは藤村さんの建築の原風景である郊外というものを、東京ではなく広島に置き換えて、それぞれの建築家の原風景になぞらえて問題提議をする問いかけでもあった。
それに対して広島という実際的、歴史的にも固有性をもった(ようにみえる)地において、実際に建築する広島の建築家たちのそれぞれのレクチャーのなかから浮かび上がってきたのは、4人4様の自由な建築に対する姿勢。そこには広島に固有の建築、東京に固有の建築などという考えが通用しない、その考え自体が幻想に近いそんな5人の建築の風景だった。

なかでも藤村さんとの違いを明確に表明し、問題定義をしつつ議論の軸を作ったのは土井一秀さんだった
雑然とした東京の建築環境に対し、恵まれた敷地をもつ地方で、いかに美しく誰にとっても普遍的な心地よさをもった建築をするかについて語った土井さん。豊かな敷地という条件を背景に、その地形に固有の意味を与える土井さんの建築は、藤村さんいわく「アンチ郊外化」の建築だ。
そんな土井さんの藤村さん個人に向けられた問題提議に対し、風景をつくる一人の建築家として、個人的な感情に結びつく気持ちの良い空間をつくることを建築の前提条件としながらも、施主や施工者、近隣住民を含めた集団で創造力を高めあいながら建築をするということを自身の建築家論として表明した藤村さん。
自然という誰がみてもわかる美しさを背景に建築する土井さんと、空虚化した都市の風景に濃密さを取り戻す手段としての建築を標榜する藤村さんは、席の並びが一等離れていることもあり、対立した白熱の議論の応酬を繰り広げた。
それでも互いの立場の違いを認め合いつつ、100%土井さんの方法論を認めた藤村さんの人間としての清々しい姿勢、土井さんの自らの明確な建築スタンスの会場の誰もが分かる明快な言葉での表明など、聴講者にとっても得るべきもののある濃密な議論であったと思う。

広島でフューチャースタジオという建築設計事務所を構える小川文象さんは「破壊構築」という一見相反する扇動的なタイトルでレクチャーを始めた。見た目のインパクトではない、深いところにある普遍的な「現象」に興味があると語る小川さんの建築は、広島での公衆トイレの案を見る限りにおいて、もっとも広島という地の固有性に立ち向かう建築家だと思った。
石川誠さんは建築設計事務所に勤務するとても若い建築家。「楽しい関係」というタイトルのレクチャーからは、来るべき自作の建築の輪郭が、意志をもった堂々とした語り口から鮮明に浮かび上がってきた。会場全体に穏やかな空気がながれる、石川さんの人格そのままの微笑ましくも爽やかなレクチャーであった。
谷尻誠さんは揺るぎない建築論を展開し、他の論者に意見を差し挟む余地を与えない力強いコメントが印象に残った。しかもいちばん声がでかい。華奢な風貌からなぜこんな力強さが生まれるのか、会場にいる誰もがそう思ったのではないだろうか。
構造家という、野球でいえばキャッチャーのような立場から建築家とともに建築を考える、『ヴィヴィッド・テクノロジー』にも参加されていた構造家の満田衛資さんは、今回のシンポジウムのコメンテーターとしての立場から、会場の微妙なニュアンスを汲み取りながらそれぞれの建築家たちに率直な疑問点をぶつけていて、それぞれの建築家の方法論の違いを浮かび上がらせていた。

広島の地で開催された今回のシンポジウム。絶対的な地の利のなかで、絶対的なアウェイの立場に身を置いた藤村さんは、質疑応答の際に会場からの声が集中した建築家でもあった。しかし僕はそれは建築のなかで建築を語る藤村さんの方法論に対して、一般的な情報量の少なさからくる誤解がもとにあると思った。
その誤解曲解にはその情報を発する藤村さん自身にも要因があるかもしれないが、それは互いへの前向きな理解への努力が肯定的に埋めてくれる、深くはない浅い溝だと思った。
僕にはすべての人の潜在的な建築的能力を無条件に肯定する藤村さんは、極めてヒューマンな温かさをもった建築家であると思えた。方法論は極めてシステマティックでオートマチックにもみえながら、その不器用なまでの人間への「肯定力」の理由が知りたいと思った。次回また藤村さんにそれを聞いてみたい。
実際にシンポジウムのあとでの、本通り商店街にある居酒屋つぼ八での打ち上げでは、同席した広島の若い建築家たちの口からも、藤村さんの無条件に建築が持つ力を信じる健気さに、心うたれるような声が聞かれたことも付け加えておきたい。

藤村さんの「濃密なコミュニケーションの果てにその場所の固有性が浮かびあがる」という、建築設計の可能性を語って締めくくられた今回のシンポジウムは、はからずも議論の食い違いが地域性を浮かび上がらせるかたちになった。
風景には空虚さも濃密さの度合いの違いなどなく、あるのは風景における建築の密度の違いしかない。
僕は帰りの新幹線の車窓から見える、流れる景色を見ながらそう思った。
それにしてもみんな爽やかだった。ほろ酔い加減で笑いながら握手をかわし、肩を寄せ合い深夜の広島の繁華街を皆で歩いていたら、あたりまえだが建築とは中央も地方の区別もない、いとしい風景を築く人間の、暮らしのためのまっとうな営みのひとつだとあらためて思った。


photo by arco design
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怒涛の広島ツアー


明日から1泊で広島に行ってきます。メインは明晩、元安川のほとりにある、広島市が運営するオープンカフェスタイルのレストラン「カフェポンテ」で開催のシンポジウム「若手建築家のアジェンダ」を聴講することです。広島から4名の建築家、谷尻誠さん、土井一秀さん、小川文象さん、石川誠さん、そしてコメンテーターとして京都から構造家の満田衛資さん、東京からBUILDING Kでお馴染みの建築家藤村龍至さんが司会として参加。藤村さんが主宰するフリーペーパー「ROUND ABOUT JOURNAL」の収録もかねているようで、平和都市広島の夜に熱いトークLIVEが繰り広げられそうです。
原爆ドーム、そして丹下健三が設計した平和記念公園も目の前というシチュエーション。その上お隣の広島市民球場ではカープの試合の真っ只中。広島では建築学会が開催中ということもあり、なにやら異様な盛り上がりになりそうな気がします(あわせて台風13号の行方も気になります・・・)。

広島は奥さんの実家があるので半年ぶりにごあいさつにも行こうと思っています。母が市内最大の繁華街、通称「仏壇通り」でヘラをふるうお好み焼き屋のんちゃんは本当にうまいので、広島に行かれる方はぜひのぞいてみてください。夜型お好み屋で鉄板焼きのメニューも充実、特におすすめはブタの耳「みみがー」の鉄板焼き。豚足も塩加減が絶妙で旨いです。もちろん焼く直前にきゃべつを刻んで入れてくれるお好み焼きも絶品です。

それにしてもホテルがどこも既に満室です。かろうじて友人に袋町にある「法華ホテル」を予約してもらいました。構造家の満田さんのblogを拝見したら同様の内容が書いてあります。てっきり僕はカープ戦のある金曜日だから満室なのだとおもっていました。

翌日は「若手建築家のアジェンダ」にも参戦の広島の建築家、谷尻誠さんの東京での初の個展「Atlier in Tokyo / 東京事務所」の初日です。なんとかレセプションに間に合うように東京に戻ってこようと思っています。
建築、旨いもの尽くしの2日間。台風の影響もあり広島では何がおこるか予想もつきませんが、短い滞在ですが楽しもうと思います。

話は変わりますが、今朝のKUROTERU BLOGさんで読んだ「それでいいのだ」が興味深かった。人はあることないことでくよくよ悩むが、すべてが必然とおもって転がる石のように生きていけばよいのだと、僕もちいさな自分をふりかえってそう思う。朝から台風の行方が気になって何度も天気予報を見ている自分に対しての戒めとして。太陽は西からは昇らないがそれでいいのだ、なんて。

hiroshoma
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イエノイエ
イエノイエ

午後から雨が上がったので横浜トリエンナーレを見に行くことにする。目当てはトリエンナーレのインフォメーションセンターにもなっている、建築家平田晃久さん設計の「イエノイエ」と、西沢立衛さんが空間構成を担当した「新港ピア」の展示風景。
イエノイエは横浜ワールドポーターズ前の運河パーク内の植物が生い茂る公園の中に建っていた。簡素な造りながら屋根の起伏を内部空間に引き入れた、自由度の高い室内空間になっていた。
建物内には建築家吉村靖孝さん、藤本壮介さん、批評家の五十嵐太郎さんをはじめ、作家の皆さんの展示がフロアごとに配置されていた。もっとも典型的な住宅のかたちである「家型」をテーマに、ライブラリーのような展示風景が印象的だった。身近なところではパピエラボが手がける家型のプロダクトが、五十嵐研究室セレクトで展示されていたりして、デザイン好きにも親近感を持って楽しめる空間だった。
平田晃久さんの「イエノイエ」はコンパクトな居住空間ながら、山の尾根のようにいかようにも拡張可能な、そこでの愉しげな生活が想像出来る豊かな人間の棲みかになっていると個人的には思った。



そのインフォメーションセンターから歩いて10分、湾の突端にある新港ピアは真新しい倉庫のような建物だった。ここで初めてエリア全体を観ることが出来るチケットを買うことになる。
チケットは購入当日を含め2日間有効ということで、広いエリアの各所に点在する会場をゆっくり見てまわるには、とても気が利いたシステムだと思った。
会場はエントランスから見て縦に長い鰻の寝床のような空間。異なる箱のような空間が単純な四角い箱のなかを縦横につらなり、それらがいわゆるギャラリーの壁の裏側を通じて迷路のように別の場所に繋がっており、空間を移動して行くことで異なる風景が目の前に広がる仕組みになっている。ギャラリーの白い壁とその裏側をそのまま見せるという、まるででっかいキャンバスのような、アートの虚と実を示すような空間の作り方は現代アートのあり方と重なると思った。
同じ会場内にあるカフェスペースは、SANNAとしてニューヨークで手がけたニューミュージアムのカフェを思わせるデザイン。カラフルな異なるチェアを配置したデザインとガラス窓の向こうに見える湾の景色が一体になって心地よい空間になっていた。
正直、今回は空間ばかりを見て歩いたので、肝心のアートについては評論が出来できません。ごめんなさい。

横浜という街は東京の東側に住んでいる僕にとっては、近くも遠すぎもなく微妙な距離にある。ちょっぴり小旅行的な横浜行きは、期間中この街を再び訪れる良い口実になる。今度は街中の散策を予定にいれてゆっくり来ようと思った。

港湾地区一帯が標識の数の多さを含めトリエンナーレ一色にそまり、お揃いのグリーンのTシャツを着たボランティアスタッフの数も多く見受けられた。このようなイベントが彼女、彼らたちの存在で支えられていることが改めてわかった。
みなとみらい地区周辺はまだまだ開発のまっただ中で、戦前のレンガ造の堅牢な建物やタワービルが共存するエリア。また港に向かってのびる運河もここにしかない景色をつくっている。その独特の地形を生かした景観の豊かな街づくりが成功すれば、魅力ある街が誕生するだろう。古くからの港町の地の利を生かし、新たな街づくりの模範地域になることを期待したい。

夜は建築家フォーラム主催長谷川堯先生の講演会「建築固有の力について」を聴講。日本の近代建築の闘将と呼ばれている前川国男が、実はモダニスト的な側面ばかりでなく、民家風、民芸風にも通じるヴァナキュラ―な建築にこそに本分がある、というような近代建築の話を中心にうかがう。ゴシック。ルネサンス。折衷主義。インターナショナルスタイル。建築の様式は先駆を否定するのではなく、その批判的精神のもとに成り立つ。現代の建築はデザインはどこにむかっているのだろうか?

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未来の建築、建築の未来
第11回ヴェネチア・ビエンナーレ建築展が開幕した。海の向こうでの話だが、ここ日本にいても展示の内容や画像は、インターネットを通じてほぼリアルタイムに届いてくる。日本館展示は先月のイギリスの月刊デザイン誌iconでも7ページの特集記事が組まれていて、海外での注目度の高さもうかがえる建築家石上純也さん。

代表選出も今回から複数のコミッショナーが案を出し合うコンペ形式になったという。昨年暮れに発表された今年の日本館展示作家に選ばれたのは、コミッショナーに建築批評家で東北大学准教授でもある五十嵐太郎さん、参加作家に石上純也さんと植物学者大場秀章さんのチーム。
発表後、建築誌を中心に披露された今回のテーマである温室の模型やドローイングは、ジャルディーニ公園にたつ日本館の庭を舞台にした植物や繊細なガラスの箱のイメージだった。大小さまざまな大きさの温室は、背の高い木が植えられたもの、家具と植物を並置したもの、人が入れないほどのちいさなものなど。それまでの石上氏のドローイングにも見られた、建築と植物を等価値に配置したもの。

もちろん僕は現地には行けないのだけれど、dezain.netでリンクされていたフクヘンさんのblogで日本館展示の画像を見ることができた。
最初その画像を見たとき僕は正直ピンとこなかった。あまりに線の細いガラスと柱のちいさな建築群は写真で見る限り、敷地内に植えられた植物と一体化しており、植物のいきいきとした姿と比べてなにか異質な人工物といった印象を受けた。
しかし、あらてめてフクヘンさんのblogと、他のさまざまなblogやnews画像で今回の石上さんの建築の詳細を、それも植物と等価に同じ目線で見ていくと、その白く細い華奢な柱は、いままで石上さんのインタヴューなどでたびたび語られていた、植物と同じ細さの柱をもった空想の建築物と同じであることに僕は驚いた。

植物の幹と同じくらいの細さの白い柱をもった、今年春に竣工したばかりの石上さんの建築物、KAIT工房を縮小したようなスケールのちいさな建築の出現である。温室の内外にはアンティークの椅子やキャビネットも並べられている。まさにいままで雑誌などで見て慣れ親しんできた石上さんの、繊細なガラスと細い柱をもった建築のドローイングが実際の空間にたちあらわれたかのような驚きを感じた。

当初の企画案にもあった「始まりの建築」名の通り、日本館の敷地にたちあらわれた石上さんの建築は、異国の地でどのように評価されるのだろうか?現地でのさまざまなレポート記事をネットサーフする限り、現地でのジャーナリストの反応も良いようだ。各国のジャーナリストや関係者のblogで見ることのできる、石上さんの充実したような笑顔からもそれを察することができる。

強靭な精神力で始まりの建築をヴェネチアの地に出現させた石上純也さんとそのチーム。世界の建築家が集う檜舞台で、未来の、そして始まりの建築は生まれる。


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渋谷裏建築探訪


スパイラルのアルテック展を見た帰りに、宮下公園の下にある駐車場を目指して友人とつれずれに歩く。久しぶりに青山から渋谷に抜ける「こどもの城」の裏手あたりから明治通りまで裏道を選んで歩いてみた。そこでまず目にしたのが青木淳さんの「青山プロジェクト」という複合オフィスビルディング。
目にもまぶしい白の外壁は、鋭角なところのまるでないのっぺりとしたもの。その白い壁自体が免震構造をもち、内部は柱のない自由度の高い空間が確保されているという。

この建物は写真では以前に見たことがあったが、実際に見てみると本当に美しい。
渋谷の雑踏からのがれ、裏手にあるせいかあまり話題になっていなような気もするが、もしこれが246沿いに建っていたのなら、さぞかし話題の建物になるだろう。それくらい僕にとってはインパクトのある建築だった。この建築において高層ビルは真にモダニズム建築の呪縛から逃れることができたのではないか。不規則に穿たれた窓とシームレスな外壁を下から見上げながら僕はそう思ったりした。

明治通りにむかってゆるやかな坂道を下っていく途中にも、新旧さまざまの意匠に特徴をもった建物に出会うことが出来る。
中層・高層の集合住宅。特徴的なファサードをもったマンション。新築の分譲マンション。昭和の時代に建てられた豪華な前庭をもつマンション。
青山と渋谷というふたつの大きな街にはさまれていながら、静かなたたずまいの残る東京の裏道。
このあたりは近頃の建築MAPには載っていない、最新建築探訪には外せないエリアだろう。

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BUILDING K 覚書 1
11

1. 建築をするうえで、その建物がたてられる敷地周辺を歩きリサーチすることは、建物をその土地に馴染ませる上でどの程度重要なのだろうか?文章を書くことにおいては、ただその対象だけを調べ書くだけでなく、その周辺(縦横の時間軸をさかのぼる歴史)の調査も文章を内容濃いものにするためには必要だと思っている。

2. ある建物を見るときに、その建物自体を見るのと同様にその建物の周辺地域を見ることは、その建物を見るのと同じように楽しいことだと僕は思っている。
その街の街並みを見ることは、そこにある個々の建物のなりわいを知るための手がかりになるだろう。
それが互いに周辺の環境に馴染んでいるのか、そうではないのか?
それを知ることは、それを建てた建築家の街への思いを知ることにもつながるだろう。
たとえば窓ひとつの開け方にしても、その環境に対する建築家の思いを知る手がかりになるのではないだろうか。

3. 高円寺の街は、おもに東東京ですごした僕にとっては未知の街だ。10年程まえにこの街で見た阿波踊りは、小さな商店が軒を連ねるこの街のありかたに対して妙に違和感を感じたものだ。それは浅草のサンバカーニバルも同様だと思う。僕は未だにサンバカーニバルにはなじめない。その頃にいった駅南口周辺の焼き鳥屋が並ぶエリアはくだけた感じの居心地のよさがあった。今もあるのだろうか?
駅前の八百屋がある細い路地には野良猫が多い。DVDにレンタルショップや鄙びた感じのカウンターバー。
そしてBUILIDING Kの周辺はどうだろう?小さな商店街を一本裏手に入ると、小さな工場や住宅がそれぞれ同じスケールで並ぶ街並みがどこまでも広がる。鉄の階段がある低層のアパート。鉄塔。高架線。街の奥へと続いていく道。背の高い白い煙突。野良猫がまどろむレンガ塀があちらこちらに残る。
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