デザインジャーナリストの藤崎圭一郎さんがスーパーバイザーを務め、フリーペーパーという形で先頃発行された雑誌「DAGODA」に関する展覧会、DAGODA展を上野の藝大に見に行ってきた。
DAGODAとは耳慣れない言葉だが、そもそもがダダイズムのDADAにGOを掛け合わせた造語だという。
DADA=ダダ(ダダイズム)は20世紀初頭に世界的な社会不安を背景に生まれた詩学を中心にした前衛芸術運動。それはスイスのチューリッヒにあった、とある酒場にたむろする芸術家たちが、なかば勢いで作り上げた芸術運動といえるものだ。その熱気は文壇を中心に世界中に波及し、日本にも高橋新吉や中原中也といったダダイスト詩人を生んだことでよく知られる。
ではなぜ今ダダなのか?
法政大学大学院システムデザイン研究科と美学意匠受講生、東京藝術大学デザイン科視覚・伝達研究室という2つの東京の大学が合同で企画した今回の雑誌と展覧会は、きっかけは大学で教育もされている藤崎さんだと思うのだが、そんな前衛芸術を祖にもつ運動が現代の大学を舞台におこっていることがなにより僕には興味深い。
展覧会の冒頭の宣言文の中で、DAGODAは単に雑誌の名前ではないないことが註釈されている。きっかけはフリーペーパーの形態をとっているが、これはひとつの芸術運動を標榜するものであり、単なる雑誌メディアではないことの宣言でもあるのだろう。
展覧会自体は藤崎さんのブログにも書いてある通り、雑誌発生のプロセスを示すものであり、表紙に使われたロゴタイプの幾つものスタディや、誌面作成のためのいくつかのプロトタイプが「過剰に」展示されている。
今回のDAGODAが思想的な背景をもつ本家ダダについては、1918年に発表された宣言文の原書とその訳文がコピーされファイルに収められ提示される。
雑誌というメディア作りにおいてその表現は質、量ともに過剰さを極めた、と書かれていたが、出来上った雑誌はすっきりとセンスよくまとめられており、フリーペーパーに使用された紙質のせいもあってか意外とミニマムな印象を僕はもった。語弊はあるかもしれないがウェブのコンテンツを見ているようなスマートさを感じ、テーマがテーマだけにもっと乱雑で荒々しくあってもいいような気がした。
なによりも僕にはポスターになっている扇情的なヴィジュアルイメージが強烈で、展覧会場でもそれがムービーとしてエンドレスでモニターに流れているのだが、これから先、そう遠くない未来におこることは人間の顔面の活躍筋がどんなに頑張っても表現しきれないというショッキングさを、お笑い芸人コロッケの人マネのように、瞼をメンディングテープで吊り上げて表現していることがユーモアさえ感じておかしかった。
想像もできない未来が僕らの未来には待っているかもしれないが、だからこそ、それを想像できる今のうちに何か行動をおこそうぜ、というようなメッセージをそのヴィジュアルから僕は感じた。
雑誌やフリーペーパーという形態、そして企画展の実現。内容に共感するかどうかはとりあえずさておいて、ここに提示された諸問題は現代を生きる僕らにとってまったくもって無縁なことではない。それゆえに目の前に今僕個人がやりたいと思っていることが実現されているのを見て、何もアクションを起こさない自分に苛立ちを感じるが、DAGODAは何か行動を起こすきっかけをそれをみた誰もに与えてくれる運動だと、今の僕にはそう思えた。