FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

現代アートビジネス 前編
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現代アートはつねに興味の対象だ。もしデザインや環境問題、そして今自分がいる時代をその背景から知りたければ、現代アートを知り、それを読みとくことは、それを知るためのひとつの手段になるからだ。
その意味で現代アートがほかのメディアと異なり優れた点は、自分たちが生きる同時代のもっとも感性の優れ社会や同時代的な事象を芸術性をもって表現することに長けた表現者によって、社会的事象の裏に潜む感覚的なものが、具体的に目に見えるかたちで表現されているということにつきると思う。

けれど現代アートを購入していないのは私も同様だ。買わなければ何も表現できないのだろうか?いや、そうではないと思う。よく見ることで見えてくる表現の本質があると思う。
現代アートはある意味古典作品より感情移入しやすいものが多く、純粋に美しいと思い、良いと思う作品も多い。
そして現代という同時代に生きているアーティストたちに最大のリスペクトを込めてその作品を見たりしている。

現代アートとはそんなに難しいものだろうか? むしろ同時代にいることによってその作品から見えてくるものを掴むことは、後世の人よりは長けているはずだ。だから現代アートに時代性や意味という理解しやすい文脈をつけるのは現代人の後世にたいするつとめでもある。

しかし、現代アートを見えにくくしている状況もたしかにあるにはある。
その閉塞的にみえる流通システムや、ギャラリーというものの敷居の高さといったあり方の問題、価格の不透明性。しかしそれらは私たちの無知からくるものにほかならない。見ようとしないことからくる無知。

だから、現代アートが難しいというまえに、ニュースやゴシップ誌をみるようにときに興味本位で現代アートを見てみるべきだ。
時に現代アートには人間の露骨な欲望や潜在意識が意識せずとも表出しているときがある。
批評性をもって現代アートをみてみよう。
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私的美しい映画5選
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今日書店でみた月刊紙にクリエイターが選ぶ「美しい映画」、という気になる記事があった。ならば私的「美しい映画」5本を選んでみたいと思いたった。以下は私が選んでみた「美しい映画」5本。

1「二十四時間の情事」(原題 HIROSHIMA MON AMOUR) アラン・レネ
2「去年マリエンバードで」アラン・レネ
3「戒厳令」吉田貴重
4「歌う女 歌わない女」アニエス・ヴァルダ
5「スタン・ザ・フラッシャー」セルジュ・ゲンズブール

美しい映画とは、単に美しい映像の映画を言うのか、あるいは美しい人生を描くシナリオのことを言うのか?私にとってはそのどちらもあまり重要でないし、そんなことは「美しい映画」の基準にはならない。
全てがその時々の私という一個人の感受性、いうなれば第一印象に左右される。第一印象が良ければそのあとどんなひどい仕打ちをされようがおおよそ許せるものだ。
映画との出会いは私というものの無意識下にひそむなぞめいたegoが私という人生に出会ってしまうことにほかならない。

さてあなたにとっての「美しい映画」とはなんだろうか?教えてほしい。

追伸:2008年は日仏合作映画「二十四時間の情事」(原題 HIROSHIMA MON AMOUR)が撮影されてから50周年をむかえる。昨年、写真家で多摩美術大学教授の港千尋教授により、この映画の主演女優であるエマニュエル・リヴァさんが映画の撮影の合間に撮影した、1958年当時の広島の街の写真が確認されたそうだ。
原爆投下からわずか13年、リヴァさんがうつした写真のなかには、生き生きとした広島の人々の姿が写っているという。
日仏文化交流150周年の記念イベントとしてHIROSHIMA 1958「エマニュエル・リヴァの広島」展が今年12月に開催が決定したそうです。
HIROSHIMA 1958「エマニュエル・リヴァの広島展」サポーター会議事務局
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モバイルアート 後編
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※(記事と写真は関連がありません。同じような感じの写真ばかりなので・・・)

ガイダンスに促されるように階段を登った先でみた、アニメーションの手法でアート作品を展開する女性アーティスト束芋のインスタレーションは鮮烈だった。本展のテーマともなっているシャネルのキルティングバックをイメージしたような、キルティング柄の黒い井戸の縁からそのなかを覗き込むと、モノクロームの映像で羽根をもがれた蝉、手足をちぎられたバッタが井戸の縁めがけてはいあがってくる。ときに蝉時雨。そんな幻想的で耽美的な映像作品は江戸川乱歩の小説「芋虫」を思いだしてしまった。そしてちぎられた羽根や手足の悪夢のような行進に被さるアンニュイなナレーションは、ぐいぐいと夢ともアート体験ともいえる世界の深みにずっぽりとひきこんでいこうとする。

たしかにそんな意図や趣旨に拘束するようなアートの見方に抵抗する人もいて、ぐいぐい自分のペースで展示を見進めていく人もなかにはいる。
レアンドロ・エルリッヒの足下だけをほの明るく照らし出した水溜まりの風景も詩的な風情を醸しだしていて秀逸だった。日暮れていくパリのアパルトマンの窓辺のある風景。ひらひらと舞うやわらかな鳥のはね。
個人的には80年代のパリカルチャーの気分を感じることのできるピエール&ジルの展示なども良かった。

今回参加を要請されながらわけあって参加出来なかったフランスの女性写真家ソフィ・カルの「急募アーティスト」の告知により参加が決まったという田尾創樹のインスタレーションは、散歩がてら寄り道したこのモバイルアートのはなれといえる場所、表参道ジャイル一階のシャネルで行われている。
日本の街中で歩く人から中身ごと買い取ったというシャネルのバックがショップの片隅に設えられた小屋のなかに、持ち主のプライベートまるごと、持ち主へのオマージュを込めて展示が構成された。
部屋の壁には馬喰横山行きのPASMOの拡大コピーがクローズアップされ、広げられたシャネルのバックのなかにはインドカレーチェーン店のチラシが。

それは過密な都市という様相をある無作為に選ばれた特定の個人からあぶりだす試みにちがいないが、いみじくも個人のそのバックの中身がその都市全体を象徴してしまい、グロテスクでトリッキー、コミカルな、ある時代やほかの国の都市を張り付けても指し示しえない、唯一無二のここ東京のいまを象徴していて、まさしく今の東京の気分を映し出していた。

結果的にシャネル、そしてカール・ラガーフェルドの術中にはまってしまった感はいなめないものの、また参加メンバーのなかにプロダクトデザイナーの名前がないのが残念だったが、十分にシャネルがつむぎだすアートのイメージにはまることができて楽しめた。
会場で配られる図録も建築とカルチャー、アートをつなぐものとして面白い読み物になっていたと思う。

この展覧会がコマーシャリズム、経済原理にのっとった真性ビジネスで、シャネルの顧客に向けたプロモーションの一環だとしても、このために設えたアートと建築とをもって世界7都市をまわるという試みは、旅一座の巡業をみるようで愉しい。
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モバイルアート 中編
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結論からいえば、ザハ・ハディドによる日本で初の建築がシャネルによるモバイルアート展のコンテナということだ。建築やデザイン、そしてアート好きにとってはそれだけでも足を運んでみる価値があるだろう。
入場は完全事前予約制またはキャンセル待ち、入場料はフリー、そしてシャネル。敷居はけっして高くもひくくもない。

今回のエキシビションにたいしてシャネルの有名なキルティングバックをテーマに20組のアーティストが作品を提供した。
そのスタイルもビデオインスタレーション、インスタレーション、スカルプチャー、フォトグラフ、コラージュ、絵画とさまざまだ。
今年2月の香港を皮切りに、今回の東京、アメリカ(次回開催都市はニューヨーク)、ヨーロッパと巡回するこの企業主導型のアート展(企業主導でないアート展があるのか不明だが)は、さまざまな点においてシャネルというビッグネームだからこそ実現しえたと思えるゴージャスなものだった。

モバイルアートといってもシャネルが仕掛ける携帯電話の新規コンテンツや、携帯電話にまつわるアート、ましてや新機種の発表会ではなかった。
モバイル=可動なミュージアムという形態。

つねに進化していくシャネルのクリエーションを象徴するように、ザハはこの企画の象徴となるパビリオンを巻き貝の生成になぞらえて設計したという。一見してこれまでのザハのプロジェクトやプロダクトとの関連性を見いだすことが可能な、スペースシップのようでもあり有機曲線を描くフォルム。軽さと表裏一体の薄っぺらさギリギリのきわどいそのありようは、解体して組み立て、そして移動していくモバイルパビリオンとしての、その存在の軽やかさに結びついているのだろう。
アジアから太平洋を渡りアメリカ大陸へ、そしてヨーロッパへというこのシャネルのアート展の流れは、シャネルという企業が企てる、文化戦略ともいえる企業イメージの伝播という企業理念を想像させる。

アジア、アメリカという原初的でカオス的で未分化の文化圏をへて、最後にヨーロッパで成熟を迎えるという文化のストーリーになぞらえながら。

コンパニオンに案内を受けMP3から流れる音響に耳をかたむけ館内を移動するサウンドウォーキングという観覧のスタイルは、施設の真っ白さや展示物のイメージをふくめ、紋切り型のSF映画の登場人物に自分がなったかのような空想をいだかせる。
ガイダンスにうながされるようにして展示スペースに入ってすぐの床面に釘付けになってしまった。金沢21世紀美術館などの仕事でも知られるマイケル・リンのモザイクタイルだ。

ヘッドホンから流れる女性の声と音楽に外界の音は遮断され、たとえ同行者がいたとしても展示物に対する批評はすることができない。

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モバイルアート 前編
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ザハ・ハディッドがコンテナ設計を手がけたシャネルのモバイルアート展を見に行ってきた。
ザハはひと昔前までアンビルドの女王なんていわれていて、これがもし小説家であったなら一生自分のアイデアは具現化されることなく終わるところだが、工業技術の発展は目覚ましく、21世紀に入ってザハの建築案は次々と実現している。もちろんその実現には高い技術力を必要とし、現代アートに近い建築でワンオフという性質上、コスト高なため、その建築はまさしくアートと同等の扱いをうけている。

会期そうそうにはホームページでのリザーブは満杯、しかもシャネルの顧客向けにもアナウンスされ、入場料金はフリーということもあってちまたではチケットの入手は困難をきわめた。
そんなネットでの気軽な入場申し込みという手段もあってか、キャンセル待ちで少し並べば入場可能という情報をえて、早速キャンセルをみこんで代々木公園内の会場に行ってみることにした。

会場についてみると開場1時間まえにもかかわらず80人ほどの行列ができている。7時間待ちと言われる。本を読みながら1時間半ほど待つと入場することができた。

ザハの建築は白のFRPの曲面プレートに黒いラバーの目地がアクセントになっている。
3D建築ソフトによってイメージされ、そのまま一気にアウトプットされたというなまめかしくも独特のラインは、その外観に近づいてふれてみればわかるのだが、驚くほどなめらかでスムースだ。
それはなにかひとつの巨大なファニチャー、あるいはスケールの狂ったプロダクトにもみえる。建築が思考の産物による概念的なものを離れて、独立した生き物の生物の皮膚のような蠢くような躍動を感じた。
さて内部はいかがか?

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カタログにはホンマタカシさんの写真なども。

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?巻貝のうえに巻貝?さて?


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細江英公 .ミスペテン
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ジャーナリストの石川仁志氏がキュレーターを務める、写真家細江英公氏の小品展覧会。
下着デザイナー鴨居羊子氏が制作した手製人形を題材に、若き細江英公が青森、晴海などを舞台にモノクロームで撮影した1966年の作品。
演出家唐十郎の世界観に通じる劇的空間を演出する細江英公の写真は、モノクロームの写真表現もあいまって、表情の変化のない人形をあつかっていながら、幻想的でときにコミカル、そしてエロティックな世界をうつしだしている。
夢でありうつつ、そしてまぼろし。カメラは物質ととまった時をうつしだす、夢の装置だ。

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細江英公氏が人形写真を撮影するようになった背景にはこんな逸話がある。ある日、鴨居羊子が細江氏のもとをおとずれ、バッグ一杯の手製人形を差し出したという。どうぞお好きなように。
そこには芸術家同士の強いシンパシーがあったのだろう。
今回の展覧会にも出品されているのだが、細江英公が撮影した鴨居のポートレート写真には、1950年代にすでに髪を金色に染めたエキセントリックな女性の、コケティッシュで神秘的な一面が映し出されている。



なお同展覧会には、細江英公氏の写真作品集や貴重な資料等も展示販売されていて、それを手に取り見るだけでも細江ファン、そして写真愛好家には大いに刺激になるに違いない。


細江英公写真展<ミス・ペテン>

森岡書店
2008.6.2(月)- 6.28(土)
13:00-20:00
日曜定休日


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Tomoko Yamaguchi ”Kikyo”
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山口智子さんは1977年生まれのアーティスト。現在早稲田のギャラリー「LA GALERIE DES NAKAMURA」で開催中の個展は「ききょう」と題された。

案内によると、ききょうとは、帰郷のことであり文字を組み換えると、「きょうき」になる。
狂気とは狂喜や凶器に結びつき、ある種の過剰を意味しているようにみえる。
下着姿の女の子はうつろな目をしており、めざめながらまさしくうつつな夢を見ているようにみえる。ときにペットが描かれることもあるが、今回の個展では白い下着姿の女の子のモチーフが目立つ。白い下着は、山口さんによればこれ以上ない防御のあかしであり、ここに描かれた女の子たちは、白い下着しか身につけていないがゆえにそのあらわな姿にもかかわらず外界から守られているという。

女の子たちと同じカンバスに描かれた、カレーライスや鯛焼き。そして単独で描かれたオムライス。
それらの絵には繊細なモチーフがあつかわれていながら、力強い絵のタッチとユーモアが描かれてあり、絵画作品としての魅力をじゅうぶんにしめしている。

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LA GALERIE DES NAKAMURA
山口智子個展 "ききょう"
2008.6.13 Fri - 7.6 Sun
木曜休み
12pm-7pm

作品集*1000部限定(シリアルナンバー付き)
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PAPIER LABO. BOX
PAPIER

原稿用紙に、FORMの文字。
原稿用紙はパピエ・ラボのプロダクトでもあるもの。
パピエ・ラボは紙にまつわるプロダクトを手がける千駄ヶ谷のショップです。

「紙というものは不思議なものだ。
書くことはもちろん、巻いたり折ったりたたんだり、そこに刻まれるしわや傷が、そこに記される文字以上に意味をもったりする」
OPENERS

江藤さん、どうもありがとうございました。
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form,photo,design...
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photo BLOG オープンしました。
http://form.vox.com/




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PETER MARKLI , JUN AOKI , ARCHITECTURAL CREATION


極めて慎重にモダニズムの建築がうまれ推し進められた国スイス。
コルヴィジェを生んだ国スイス。
ペータ・メルクリ氏は確かにそんなスイスに生まれた極めて重要な現代作家であり建築家だろう。

建築という整合性のあるものと、人間という不条理であり整合性を好むもの。
それらのあいだにある矛盾を、人間の感性的なものによってしか解決不能なものを建築によって表現しているようにみえる青木淳氏。

そんな二人の建築の仕事がどのように展示空間として表現されているのか。建築の展覧会というものについての興味は尽きない。

これは見てみたい。訪れたらリポートします。


建築がうまれるとき
ペーター・メルクリと青木淳
場所:東京国立近代美術館ギャラリー4
会期:2008年6月3日〜8月3日

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