FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

日本橋三越裏LED信号機
MA 

街中の信号機が最近スリムにあたらしくなってきた。いままでのどことなく丸みをおびたころんとした信号機のシルエットから、LEDを光源にもつシャープな印象の薄型のTVモニタのような、どことなくいまふうを感じさせるあたらしいフォルム。
 旧式の信号機とあたらしい信号機の並存した街の交差点の風景。
 注意深く交差点に立ち止まってそれらを見ていると、今自分たちが新しい時代に突入しているのだなあと思い、静かな時代の変化を感じることができる。
 あたらしい信号機が備え付けられた交差点に立つと、ほんの少しのものの形状の変化が、その場の空気を大きく変えてしまう、強いちからをもっているのだということに気づくだろう。

 LED光源はいままでの電球タイプに比べ消費電力は2割以下、約10倍の寿命をほこり、電球の交換の手間や、寿命をなどそのランニングコストを考えても省エネ効果が確実に期待できる。LEDはレンズユニットタイプと素子タイプがあり、素子タイプのほうが粒の明るさもあり、背景の雑然とした街中でもくっきりと光を照らし出し、その役目をいっそう果たしているようにみえる。しかしなんといってもその筐体の薄さは、街なかで圧倒的な存在感を放っている。
 現在LEDを採用した薄型歩行者灯器を製造しているメーカーはいくつかあり、そのうち1社の薄型歩行者灯器が工業デザイナーの秋田道夫さんのデザイン。

 秋田道夫さんはケンウッド、ソニーの音響機器のデザイナーをへて'88年よりフリーランスデザイナーとして活動している工業デザイナー。そのシンプルながら力強い造形力のみなぎった力強いデザインには定評がある。
 最近ではコクヨのIDホルダー「HUBSTYLE」や、デバイスタイル、MAデザインといった家電デザインなどもてがけ、知らずにそのデザインに触れたことがある人も多いのではないだろうか。

 なにげない日常に使用するものこそ、気の利いた秀逸なデザインのものを使いたい。それはきわめて普通の生活を豊かにする小道具、もしくは生活に寄り添う、心にくい配慮にみちたデザインであってほしい。
 デザインはアートとは異なるものだ。しかし現在、デザインほど日常に寄り添う身近なものはないというくらい、デザインという言葉とその概念は切実にわたしたちの日常と深いかかわりをもつものになっている。もしアートが人の心をほんの少し豊かにする効能のあるものであるのなら、日常触れる道具のデザインこそアートと等しく日常を豊かにするものであってほしいし、そこに高い次元のものとしてのきわみを感じてみたい。
 街中でいつも目にする信号機のデザインや、それが据えつけられる鉄柱のデザインに配慮が感じられるようになった昨今、その背景に何気ない日常の風景をつくる秋田さんのようなデザイナーがいることをわたしたちは忘れてはならないだろう。
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organ + ENOUGH
enough

ENOUGH ON EARTH「土足を選ぶ」は福岡のインテリアショップorganとENOUGHの新しい生活提案型のプロジェクトだ。
25日から始まった福岡でのデザインイベント「DESIGNING?」の一環として開催されていたENOUGHの展示「Preview room #602」は、市内中心地から少し離れた大橋という町のマンションの一室で行われていた。
このプロジェクトリーダーであるorganオーナーの武末充敏さんは、かれこれ15年以上土足の生活を実践しているという。

"ENOUGH=充分"という言葉に込められた意味は、日々更新されていくあらたな欲望に対処するための、わたしたちのまっとうな暮らしの知恵に他ならない。「こんなデザインや道具があれば満足」、そんな考えは際限のない欲望を増長するものでしかないのかもしれない。

ENOUGHの同人である 、プロダクトデザイナーの野見山聡一郎さん、田中純二さん、有吉祐人さん、下島啓吾さん、そして武末朋子さんがこのプロジェクトのために手がけたプロダクトデザインは、簡潔なかたちでありながら、機能的、同じ空間に置かれていたブラウンのプロダクトのように、きわめて純粋な物としての佇まいをもつ。
土足の暮らしを前提にしつらえられた空間は心地よさにみちていた。

それはなにも、日本人の生活にとって特別なことではなく、明治の維新以前に普通の日本人が普通にしていた暮らしのスタイルのありかたに近いものだ。
かって、家のなかには土間というものがあり、そこで煮炊きをし、時に馬や鶏とそこで暮らすこと。
それは日本人にとって普通の日常のいち風景であった。

何も土足だといってそれはかたくなに靴を脱ぐな、ということではない。1つの固有のスタイルを主張しそれに固執することは、それ自体自由なスタイルの提案ではなく、ある概念に縛られる不自由さにちがいない。だから靴をはく=土足とは、靴のまま生活をする、裸足で暮らす、室内履きで暮らす、という多様な暮らしの提案という解釈につながる。
土足より靴を脱ぐ生活のほうが衛生面で優れている、という考えには一理も二理もある。しかし不思議と日本での素足での空間での生活は、暮らしのスタイルの西洋化に伴って促進されてきたように思う。
特に現代におけるマンションやアパートでの暮らしでは、建築部材の削減や効率化から靴の暮らしは、消音のための問題とすりかえられてきたのではないか。

社会的にあたりまえで、疑問を持たずある在り方のなかには、何か得体のしれない不可思議な問題が潜んでいる。それは社会性というもののまえにいびつに歪められた個人の在り方にほかならない。
その問題への問いかけは新しい何かを生むための契機であるまえに、自己の在り方の問いなおしでもあり、再確認でもあって、一歩立ち止まってみてみる余裕や勇気であったりする。

そしてそんな生活のスタイルの暮らしぶりのなかから、こんなにも清々しい暮らしのかたちがうまれるのであれば、それは静かに人々のこころに浸透していく暮らしの、極めてあたりまえなひとつのありかたとして定着していくに違いない。
自宅を解放してのこの新しいプロジェクトは福岡の地で確かな一歩を踏み出していた。

enough2

*DESIGNING?
2008.04.25FRI-04.29TUE fukuoka

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丸の内ミッドタウン
丸い地


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アフターコネクトオークション
コネクト2

コネクトオークションの第二回目が開催されて二週間。大崎にあるオークション会場でもある本部を訪れた。
町工場の三階にある、倉庫然としたフロアはさしずめアーティストのアトリエといったおもむきで、大きめのキャンバスと散乱した絵の具が似合う広がりのある空間だ。

実際に壁には大きな絵画がかけられ、気のせいか絵の具のにおいならぬ倉庫独特の鉄の錆のにおいがする。

オークションのあとの発送の手はずや、アフターセールのために並べられた時代もののファニチャーをみていると、プロダクトデザインが生まれてくる現場がもつ熱のようなものを感じる。
そして何よりアートとも、単なる日用品とも異なる、優れて機能的な美しさをもつそれらのプロダクトデザインには、自らその機能を語りだすような饒舌さを感じた。

その機能とは使い手が余計な考えや理由づけをしなくても、黙ってものを見ていればおのずと理解できるような、そんな当たり前なもののことだ。

あらためてことさら語らずとも理解しうるようなもの。

だからこの場所は静けさが漂っていながら騒々しい。
ひとしきり探索をして、ものたちがかたるところのものに耳をかたむけつつ、お邪魔したことの挨拶を交わし、このアトリエをあとにする。ぱたんとドアをしめた途端に声にならない音のようなものも、遠くにあとずさりしたような気がした。
TOKYO | permalink | comments(0) | -
オーレ・エクセル
オーレ・エクセル展

スウェーデンのグラフィックデザイナーであるオーレ・エクセル。日本では、というか世界的にみても、あまりにその存在が不当に扱われてきたグラフィックデザイナー、イラストレーターであるオーレ・エクセルが、やっと日の目浴びようとしている。

かってあった幾度かの北欧デザインブームのなかで取り上げられることもあったが、その活躍の中心時期が1960年代という、いまの時代からみれば遠い時代であっただけに、過去のものとしてあまり深く考察されることもなく、その評価は表層だけのものにとどまってきた。

今月京都で開催される展覧会を皮切りに、5月後半には東京にも巡回するオーレ・エクセル展。
やっと、モダン・スウェーディッシュ・グラフィックデザインの真髄にふれることができる。
'50年代の大衆小説のためのブックカバーのイラストレーション、スウェーデンのチョコレートメーカー「マゼッティ社」のためのエクセル氏の代表的な仕事である、CIの考え方に基づいたアートワーク。そして、戦後アメリカでモダンデザインの教育を受け、当時ポール・ランドらが実践していたデザインの社会的な意義についての深い考察。

デザインと経済を結びつけて展開された著書「デザイン=エコノミー」や「コーポレート・デザイン・プログラム」は、エクセル氏が社会におけるデザインの役割を、非常に早い時期から認識していたことを示すものだ。そしてそれはいまの時代にこそ有用な、デザイン、そしてデザイナーのありかたを考えるときの社会性に気づかせるきっかけになるかもしれない。

企業という制約の外から、デザインと経済の関係を考察したエクセル氏は、深い思索から生まれる問題定義と、ひらめきを大切にしていた理論派のグラフィックデザイナーであったといえるだろう。
素朴な可愛らしい子どもや鳥の絵を描くときにも、そこに込められたメッセージは社会の構造全体のありかたを見すえていた。
だから現代から俯瞰してみるオーレ・エクセルの仕事には、デザインこそが人々の明るい日常をささえるという普遍的な目的意識と、それを実現するための確固たる信念をもってグラフィックデザインの仕事にたずさわってきた、真摯な姿勢がつらぬかれているのだろう。


「オーレ・エクセルと北欧展」 4.22〜5.5
恵文社一乗寺店



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ブルレックのプラスティックアームチェア
たのしみhttp://www.bouroullec.com/

ロナン&エルワン・ブルレック兄弟の新作、プリスティックアームチェアの"パピルス”。神秘的で意味深なネーム。古代エジプト人はナイル川辺に自生するパピルスから紙をつくったという。ラテン語でペーパー、紙の語源となった、papyrus。古代文書。
紙のように薄くて軽い。そんな意味なのだろうか?カルテルからのリリース。
こんなの見せられたらやっぱり、ミラノサローネ、楽しみですよ。
exhitibition | permalink | comments(0) | -
SIGMA DP1
sigma

機械は古ければ古いほどよい。そんな既成概念をもっている人も多いことだろう。バイク、オーディオ、時計、そしてカメラ。それらの趣味の対象はことなれど、それぞれにもつこだわりは人知れず大きい。
使っていたコンパクトデジタルカメラが最近こわれた。こわれたら買い換えるのがもっとも手っ取り早い。それはきわめて現代的なモノとの付き合い方だ。それでもいつからだろうか?モノはこわれるものだし、それは直せば済むことだ。しかし、直すことはあたらしくつくることより困難であったり、お金がかかる。時間もかかる。いったい現代の機械製品を一生もの、と思って購入する人がいるのだろうか?多彩な機能、新しいスペック。
そんな動機こそ怪しいものになってしまった。
一生もののつもりでモノを選び、買う。
しかし、それはモノを買う自分に対してのまやかしというごまかしにすぎない。
むしろモノを消費するだけのためならば、いっそ使い捨てと割り切って購入してしまったほうがいさぎよい。
今回買ったデジタルカメラは(もはやカメラといえばデジタルで銀塩カメラは過去のものになってしまったようだ)日本シグマのコンパクトデジタルカメラ、シグマGP1。
コンパクトカメラながら比べるなら大型の一眼レフカメラというから、それだけでも、そのポテンシャルの高さがうかがえる。
通常一眼レフカメラに使用される見たとおりの映像をとらえるための、コンパクトカメラの7〜12倍程度の大きさのイメージセンサー搭載されているというDP1。レンズを通った光をそのままとらえ、それは解像度の高い階調ゆたかな画像を生み出すという。
見たものを見たとおりに記録して残す、そんな欲望が記憶装置としてのカメラの進歩につながり、無理のない形態を生む。しかし、技術の進歩とともにおき去ってきた古い機能は、それをそのままあたらしいスペックにあてはめることは、それ自体現代にあっていささかの不釣合い感はいなめない。
昔のふるきよき時代の機械をおもいださせる外観、それは物欲を刺激するデザインという意匠をまとった巧妙な産業製品のことでもある。
インダストリアルデザイン | permalink | comments(0) | -
ca-the
カテ

中国茶ca-theは、名古屋市にあるお茶屋さんだ。以前に同じ名古屋のファニチャーレーベルNAUTのホームページで見てから気になっていたお店だった。
初めて訪れたのは今年の2月後半。ひとり日帰りの名古屋旅行の途中の夕方過ぎ。付近は下町らしいアーケードのある、いつでも人でにぎわっている商店街があるあたり。

せまく急な階段をあがると、スチールわくのガラスとびらがある。白と白木を基調とした店内にはアンティークの椅子が並び、懐かしいたたずまいのオブジェが品よくディスプレイされている。
中国茶の銘柄がずらりと並んだメニューには、ひとつひとつに丁寧にコメントがそえられている。そんなメニューを見るだけで、この店がお茶を淹れ、それをお客に供するというあたりまえのことを、しごくまっとうにしていることがよく理解できる。

はじめて訪れたとき、そんなメニューのなかから何をいただいてよいものか分からずにいて、ついついマスターにおすすめをうかがってしまった。
お茶と湯気ののぼるポットと、アルミ製の丸いトレイ。そしてなつかしいアルコールランプの焔。つつしみぶかくかおり立つ中国茶のかおりは、清らかなこの店そのものにほかならない。

つい先日おとずれたときは妻と、すばらしいタイミングで名古屋に居合わせた東京からの友人が一緒だった。
4つのことなるテイストの中国茶をたのみ、2つのケーキをオーダーした。マスターは気取らず気負うことなくお茶を淹れる。ただそれだけ。しかし、ここで過ごす時間は特別にゆっくりと心地よくながれて、ひたすら居心地がよい。


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椎野美佐子さんのガラス
しいなさん

名古屋で出会った椎野さんのガラスはベネチアとも、北欧とも違う、愛知のガラス、というべき土地のにおいを感じるものだった。
愛知は焼物の原料となる良質な粘土や、ガラスつくりの原料となる珪砂が採取される土地柄。古くは瀬戸という民窯をもつことでも知られている。以前にご紹介したガラス工房、スタジオプレパの平さんも愛知県の出身。
今回椎野さんの作品を見たお店は、名古屋の花と現代アートを扱う、本山のフローリスト・ギャラリーN。おとずれた当日オープンしたばかりのフラワーショップは単に花を飾るという行為ではなく、フローリストが提案する、花とともに過ごす日常を豊かに彩る花の、そして植物との出会いを通して人のつながりを感じることのできる感性の高いショップだ。
椎野さんのガラス作品は日常の道具としてのガラスとはことなり、人が日常めでるための作り手の感性が反映されたアート性の高いもの。それはそれが置かれる空間をガラスという熱をともなった天然のオブジェにこめられた作り手のたましいのあり方を感じる個性の強いものだった。
しかし、ガラスというそのままでは自然に戻すことのできない環境に対する配慮を必要とするマテリアルと真摯に向き合う椎野さんのもつ個性とそのひととなりは、わたしにとってアートをたったひとつの個性に還元することのない、広い心をもったガラスの作り手という考えにむすびついていた。
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マッカムのピラミッド
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オランダの陶磁器メーカー、ロイヤル・ティヘラー・マッカムより今年のミラノサローネの案内が届いた。今年のタイトルは「ピラミッド・オブ・マッカム」。

マッカムのピラミッド、という意味だろうか?案内にはヘラ・ヨンゲリウス、アレキサンダー・ヴァン・スロベ、ヨルゲン・ベイ、スタジオ・ジョブというマッカムではお馴染みのデザイナーの名前がある。作品は墨のシルエットで描かれ、ヘラはトーテムのような感じのシルエットが描かれ、スロベは王冠の載ったチェア、ヨルゲンは逆さにしたトーネットの椅子のようなものや管楽器のようなもの、ジョブはやかんに湯気のでたポットなどなど。それらがいったいどんな焼物に仕上がっているのか、まったく想像もできずに興味をそそられる。

[・・・challenged our craftsmen with their contemporary interpretation of 17th century flower pyramid] 現代的な解釈による17世紀の花のピラミッドとは?
オランダの17世紀のデルフト焼きにはフラワーピラミッド(通称、チューリップベース)と呼ばれている焼き物が存在する。今回のカタログを見る限り、それを忠実に再現しているように見えるのはヘラ・ヨンゲリウスの作品だ。
トーテムポールのようにさまざまな意匠が積み重なった焼き物。想像の域をでないが、それらをピラミッドに例えているのだろうか。しかし、17世紀にそれらは実際にオランダのデルフトに存在した。

今回のサローネで発表されるマッカムのピラミッドは、4月のミラノのあとはオランダのマッカムのフラッグショップ、そしてオランダのエンクハウゼン、アイセル湖畔にあるゾイデル海博物館、ニューヨークのモスに巡回するようだ。
シルエットで見る限り、一連のスタジオジョブの近年のアート作品を彷彿とさせる、ユニークピースであることは間違いがなさそうだ。

今年も恒例のミラノサローネを目前にひかえ、デザイン熱も少しずつ上昇してきた。しかし昨今の異常なほどのミラノサローネの狂騒ぶりは、少し滑稽でもあり、毎年訪れている一部のデザインフリークからも、冷めた意見が聞かれたりすることもある。
実際、いかにも速いペースで注目のクリエーターの新作を目にすることができる幸運はありがたくもうれしいことだが、そのペースがデザイナーたちの創作意欲のペースにむすびついているのか疑問もある。
経済がクリエーティヴさを凌駕していないか?

ともかく、オランダの老舗陶磁器メーカーの冒険は、いまやアートの領域に入りつつあるようだ。
これを見て、デザインとアートの交わりはますます加速していき、もしかしたら日常のオブジェというあたらしい機能というジャンルが、一般的になる日もそう遠くはないのかもしれないと思った。


Royal Tichelaar Makkum presents
Pyramids of Makkum

April 16-20 , 2008 salone del Mobile

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