FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

...ronan et erwan bouroullec...wind of.... 3-1.
brctp

フランスの北西部、この国の突端に位置するブルターニュは大西洋に突き出した半島の形をしており、この地方独特の季節風に吹かれ、風光明媚な避暑地として知られている。
ブルターニュはもともとアングロサクソンに追われたケルト人が開拓した土地であり、この土地の人々はケルト民族を祖に持ち、ラテン民族を祖に持つおおよそのフランス人とは異なり、マイノリティな存在であり、複雑な歴史の歩みの中でこの地には独自の文化が培(つちか)われ、形成されてきた経緯がある。

ブルターニュの人々は時にその特種な出自からブルトン人と呼ばれ、ケルト語の諸言語の1つブルトン語を話し、自然崇拝、多神教の神々を敬い、妖精や魔術とも近しいという今もコーンウォール半島やウェールズに残るケルトの人々と祖先を同じくする。

ブルレック兄弟が生まれ育った海沿いの町カンペールは、そんなフランスの北西部ブルターニュに位置し、中世の町並みの残る旧市街、そして300年の歴史を持つカンペール焼きで知られるこの地方有数の観光の町である。

ロナン・ブルレックの初期のプロジェクトが家具と陶器のプロトタイプであった事は、彼がこの町で育った生い立ちと、なにがしかの関連性を見て取る事が出来るが、最初期のプロダクト、幾通りもの組み合わせが可能な8つの白いポリプロピレン製の花瓶は、彼の柔軟な物つくりの姿勢とエレガントでフレキスブルなスタンスが如実に表れていて実に興味深い。

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..ronan et erwan bouroullec....
Ronan et Erwan Bouroullec


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...Piet Hein Eek...super normal...3-3.
..piet

たとえば昨今話題のデザインに於ける『スーパー・ノーマル』の思想にしても、それがノーマルであると認められる為には、普通である事のうちに長い時間をかけて日常生活の使用に耐えてきた経緯と、それが進化していく過程と、それらが醸し出す普通らしさ、という風貌がうちに秘めたものの中に、時代の変化と経過の内におのずと生まれてくる、人間が意図的に手を施す事の出来ない、自然が生み出す有機的な進化の過程が存在する事を忘れてはならない。
ある種のものに宿るノーマルの概念も、移り変わる時代と共に変化-退化し、時に進化しながら人々の日常生活の中の目に見えない部分に深く浸透していく。
ノーマルとして日常生活の中に埋没し、まるで透明な存在になる事が、ある意味それらの使命であり宿命なのだ。

カルヴァンは選らばれた民として現世に於ける勤勉に重きを置き、手工業と貿易を、また時の宗教家たちの中でも富みに芸術や科学の発展を推進したことでも知られている。

オランダという国が歴史的に見て戦ってきた、海面の侵略という如何(いかん)ともしがたい自然との攻防は、自国民に切実で必然的な自然との共生、環境への配慮、そしてそれが自国の産業に結び付き、しいてはそれが世界に向けたメッセージ足りうる事実は、オランダ国内に於いて自明の理である。
デザインはオランダという国に於いて、産業をより物本来の姿に基づき人間的な視点から捉えなおすエコロジーの観点に立った理念になりつつある。

それはピート・イークの作品作りの理念を見ればつまびらかに理解されうる事なのだが、リサイクルはもはや物の価値を問い直す為だけの消極的な方法論ではなく、人が生きるための積極的な論法、人が万物の創造の理念に従う、物の連鎖に連なる強固な鎖となる事の自明な意志表明に他ならないのである。

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http://www.pietheineek.nl/
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...Piet Hein Eek...super normal...3-2.
..piet

オランダの小さな田舎町にあるという、ピート・イークのアトリエは、まるで木工所のようであり、ある種のアーティストのアトリエのように、まるで資材置き場のように見えたり、子どもが遊ぶ為のおもちゃ置き場のように見える、という多様な豊潤さと、自然そのものが持つ叡智が文字通り実り多い果実をもたらすように、創造の英気に充ち溢れている。
それはまるで子どものような少年の瞳を持ったピート・イークがその不釣合いに大柄な体躯を持て余す程に、その才能と創造のための原動力となる源を、あくまで推測だが、歴史の中で培われてきたオランダ人独特のものの考えに基づく思想背景に見ることは出来やしないか?

カルバン主義は16世紀のフランスの宗教家ジャン・カルヴァンが唱えたプロテスタントの一流派に数えられ、聖書の考え方をより深化させるとともに教会をすべての中心と考え、それは国家さえをも教義の元に究極的には集約され得るものと説き、その倹約と勤勉を良しとした思想は商業発展の為の礎となり、資本主義社会を支えるものとなった。
もともと中世以来、カルバン主義の影響の強いオランダで、交易が盛んで商業が発達し、その国民性に倹約・勤勉が上げられるのはそのような歴史的背景によるところが大きい。

カルバン派の考え方といえ、歴史的に見ても整然とそれが実現されてきた訳ではなく、その時代に見合った考え方としてのカルバン派の思想も進化してきた。
それは例えば『社会』というものが、人類の活動の如何に左右されず、有機的に生き物のようにそれ自体が自立的に発展する、という考え方とも極めて現代的な方法で結びついていく。

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...ideas...

The process that a thing becomes form.
A story of a process.
A real thing by craft.
Tell it about manufacture.
An ideology of a design.


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...Piet Hein Eek...super normal...3-1.
piet

廃材は物珍しい目で見られる事無く、打ち捨てられた廃屋から、もしくは家々を仕切っている板塀の連続する馴染み深い田舎風の景色に中に、ごく自然に目の前に広がる田園都市の景観を形作っている。
我々の前に広がるそれら、日常生活の風景の中から、木材を選りすぐり拾い上げる作業は、やがて訪れる芸術的な審美眼の中に埋没することのないままに、それらが本来持っているところの個性と歴史の積み重ねを微塵も失うことなく、物本来の価値に基づいて再構成される人が日常使う為のオブジェになる。

ピート・ヘイン・イークが廃材で作ったパッチワーク風にも、キルトの手法のようにも見える、特定のどこかではなく、漠然としてはいるものの、現実のどこかにありそうな田舎風のキャビネットは、人々の生活の中に根付いている暮らしの穏やかさにも似た、人が都会の生活の中にあっても決して忘れてはならない大切な何かを想起させるだけの、素朴だがフレキシヴィリティに溢れた前衛的な作風を漂わせている。

少しでもその作品を間近に見れば分かるのだが、その作品製作のプロセスは明確であっても、その完成形はいささかでもイーク自身にも未知数であって、予測不可能な進化の過程をその作品ひとつひとつが内包していることは傍目にも明らかであるように見える。

ドローグから1994年発表されたテオ・レミの『Chest of drawers』は古いドロワー=引き出しの連なりからなる、不確定な要素を含んだ整合的な作品だ。
それらの作品とイークの作品との間に連なるひとつの糸は、オランダ人が遺伝子の中にもって生まれもっているところの倹約精神に由来するとしても、その作品が持つあからさまなユニークさと素材と製法に対する実験精神は、類まれなる創造性とイマージの量産的付加価値に裏付けされた、民族的な知の蓄積と豊かさによるものに他ならない。

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...maarten baas.. exhibitions....
マーティン・バースのクレイ・ファーニチャー=インダストリアル・クレイを使用し成型した家具、を初めて見た時、これは彼のデビュー作品にして出世作でもある『SMOKE』と対比するところの陰と陽、陽の部分であるのだな、と思った。
CIBONE AOYAMAのギャラリーで開催中の『MARRTEN BAAS展』は、そのクレイ・ファーニチャーと『SMOKE』という、現在に於ける彼の代表作ともいえる2つの異なるコンセプトを持った作品群を、ギャラリーの空間の左右に、象徴的に対比させながら展示している。

おそらくバースがそれらの着想を得た時期は異なるので、作品の見かけが異なれば作風も異なるのは至極当然で、それをこの様に実際に対比させて目の当たりに見ると、まず感じられる事は、クレイが真夏の陽の光に照らされ輪郭もシルエットも揺らめく陽炎(かげろう)のように見え、手の形や力加減そのひとつで思いのままに型造られる気ままさが『表』を象徴しており、かたや『SMOKE』が、バロック趣味の重厚な骨董家具を燻し煤けてひび割れた姿で提示している事とも相まって『裏』を表し、それぞれの存在そのものの立ち位置の高低の差が際立っていて、見た目にもあやうく、こちらの思考感覚が麻痺していく幻影に囚われてくる。

そうしてそれらが醸し出す雰囲気が、時間軸の感覚や思考共々消滅させていき、これが陰と陽という異なる概念を現す単純なものなどではなく、同じ影、陰(いん)を象徴する東洋的な儒教の思想にも似た、慎ましやかと同じ意味の根幹を持つ、同様のコンセプトを、まさしく同一の人格を持った一人の人間が作り出したオブジェクツであることが分かってきた。

会場で何故か『SMOKE』を凝視する事が出来なかったのは、陰の部分があまりにも強烈で無意識裡に避けてしまったからだが、ただそれは負の要素を伴った陰湿な暗いものなどではなくカラッとした、クレイ・ファーニチャーの中にも内在する浮遊するあやうさ、その限りに於いて尽きてしまう存在そのものの不確定さという意味のなにものか、なのである。

今はまだ断定する事は出来ないが、今暫くはただじっくりと観察してそれが何かを見極めていきたいと思っている。

i&y
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...maarten baas.. exhibitions....
mb

www.cibone.com
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...Crafts and machine..studio demakersvan..2-2.
...Craftsman and machine..Judith de graauw, and Jeroen and Joep Verhoeven.

ジュディス・ドゥ・グラウと、双子の兄弟イエルーンとヨープ・バーフォーベンはオランダ南東部にあるアイントフォーヴェン・デザイン・アカデミーに在学中、共に農場に暮らしながら、それぞれがお互いのデザインの為のユニットを共同で設立することの必然性を感じていたという。
彼らは連名で卒業制作を製作し、ロッテルダムの港の傍にDemakersvan(=The makers of ) というデザイン・スタジオ設立する。時にユニットで、ある時はソロ・プロジェクトでの内外のクライアントの為の作品作りは、デザイン・アカデミーを卒業したての若者としては奇跡的に大きな成功を収めつつある。

しかし彼らは大企業やミュージアム、そして特定のクライアントのニーズに応える為だけの作品作りをするつもりはないという。むしろ彼等は独身の男達がおくる豊かなデザイン・ライフのストーリーに貢献したいのだという。
そして今彼らは低コストの作品製作の為に、インドでの生産の為のリサーチを行っている。

3次元のコンピュータファイルによって、プログラミングされたデータ・システムにより制御された木材加工の為のフライス盤によって、バーチ材のプライウッドが繊細かつ正確に削り出されていく。
ハイテク機器のコンテンポラリー・デザインへの応用は、クラフトの技術が思いもしなかったような高度な加工を可能とし、デザインそのものが人間が支配するところの機械の加工のプロセスの中からこそ発見される、と彼らは信じている。
それは各々(おのおの)の思考の限界が発想の限界であるのと同じように、デザインの才も思考の限界におのずと左右される事になることと等しい。
その事にまず自覚的になり、機械の加工のプロセスの中に見出される、それ自体の加工の応用の拡張は、彼らの思考の限界の裾野を押し広げていく。
そこにこそハイテクとクラフトとの魅力的な融合が果たされるというわけだ。

イエルーン・バーホーベンが思い描くプライウッドの三次元曲面の加工の夢、17世紀のテーブルをモチーフにデザインされた『シンデレラ』(Industrialized Wood table)は、数値制御装置付き(CNC)のフライス盤5台を使って、実に57の層になったバーチ材のプライウッッドを削り出す事の内にある。
デザインのコンセプトをデジタルの数値に置き換え、その精度の限界まで突き詰めて思考し、機械の限界に左右されるのではなく、機械の限界を導き出すことを新しい時代の人間とクラフトのあり方に結びつけて考える。
その時こそ機械はわれわれ人間と共に働く手工芸の為の道具になる。

ジュディス・ドゥ・グラウと、双子の兄弟イエルーンとヨープ・バーフォーベン、世界的な権威であり、デザイン界の目利き、マーク・マクドナルド氏も早くから目に掛けているようであり、今後目が離せぬ若手である事には間違いがないようである。

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::::::: kakitsubata bekkan.
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...Crafts and machine..studio demakersvan..2-1.
..lace fence..

オランダの伝統的な靴職人が使用する上質な革をモチーフにして、アンティーク・ドールを縫う手法で作られるジュディス・ドゥ・グラウが手掛けたスツールは、ウレタンフォームやウールの繊維の類いではなく、意外にも座面にシリコンを埋め込み、思いのほか快適な座り心地を獲得している。
シリコンを座面に使用するという彼女の考え方は、Studio Demakersvanのコンセプトの一つである、デザイナーが科学者や他のクリエイター達との融合を示す如実な一つの方法論である。

原初的な明かりを燈すために、必要とあればマッチを擦り、炎をかざすというプロセスを経て、ほのかに揺らめく炎を燈すキャンドルのように、人の手に握られる為の柄を持ったトーチランプは、それを手にする、という必要最小限のミニマムな行為の為だけに生み出された古代のともし火のようだ。

科学技術の発達した現代、その粋を集めて開発された明かり、エコロージーで、電力資源に乏しい船舶で使用される低電圧の誘導灯の電源は、このご時世のロング・ライフの思想に適い、その上見た目にも余りにプリミティヴな原初のスタイルを付与された、ジュディスのプロジェクトに通底する『LOST & FOUND』という思想と共に、そんなシンプリシティに充ち溢れている。

古い考え方に従う事とは、言い換えれば既存の方法論に従う為の言い訳にすり替えられる事があるが、彼らの取り組みは、固定観念を覆い返すところからスタートする『方法論』の基盤になる。
固定観念とは最早使い古された感のある言葉の一つに数えられるが、我々はしばしばそれらに捉えられ、思考経路は拘束され絡めとられている。
自我=エゴを超える事は容易ではない。
そもそも自我は超えるものではなく、それを踏みつけ、粉砕して新たな自我を構築する事の上にしか成り立たない。

ヨープ・バーフォーベンの『レース・フェンス』はまさしく自我を超えるための一つの手段であり、的確な方法論を、ワイヤー・フェンス=自我に置き換え、私たちの前に対置することによって自覚的に意識させ、我々を縛り拘束する、日常無自覚にいる自我からの、人間的な方法論によっての解放を目指す指針になる。
ワイヤーで編まれた極めて有り触れたフェンスは、危機管理の為の人や物を拒絶する為の敵意に満ちた工業製品であるが、ひとたび目線を替えて見てみると、その編みこみの手法は手が込んでいて、手工芸の手編みの手法に見えないこともない。彼らはそれを優雅で装飾的な文様を描く為のキャンバスに見立て、作品作りに応用する事に成功した。
無機質なワイヤー製のフェンスが、有機的な施しをほどこされることによって見せる多様な表情は、機能と優雅さがバランス良く保たれていて、実用と鑑賞の両方に堪え得る稀有なオブジェとしての様相を呈している。

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