視覚的言語=グラフィック・デザインの重要性を唱えた、ロシア・アヴァンギャルドの中心人物、エル・リシッキーが当時親密に関わった人物は、後にバウハウスの重要人物になる者が少なくなく、その中にはヨハネス・イッテンの後継者として重要な仕事を果たした予備課程のモホリ=ナギや、1928年にグロピウスが退いた後のバウハウス校長となるミース・ファン・デル・ローエがいた。
バウハウスと直接的な関わりこそ持たなかったが、リシッキーはシュビッタースと深く関わり、当時高難度の結核療養中にも拘らず、構成主義者として『メルツ』の編纂の職に病床から携わっている。
プロウン、と纏め称される彼の構成主義作品群は、建築と絵画を往復する芸術の未来系を標榜していた。
シュビッタースはベルリンの西、ドイツ北部の町ハノーヴァーの出身で、廃棄物から芸術作品を生み出すという、その反芸術的行為から、ダダの中でも極めてダダ的であると評され、当時のドイツでのダダの活動の中心的人物である。
二つの大戦を挟む動乱と自由が往来するヨーロッパにあって、芸術家は未来に希望を持つ事によって現在の悲惨を逞しく生きようと試みたのであり、それは芸術表現こそが現状を打破する為の爆弾になることを世界中に示した。
迫り来る黒い影に怯え萎縮するのではなく、暴言・暴力の類いこそが現状を破壊する為の手段になり、メガホンはただ単に音声を拡張する道具ではなく、レディメイドのオブジェクツに変化する。
芸術家にあって自由とは、それを求める為には祖国を、大陸を離れる事をもいとわぬ究極の言説になる。
新聞の切抜きや、広告、アジチラシの類まで、あらゆるものがシュビッタースのコラージュの対象になり、シュビッタースのアパルトマンは彼の廃棄物による建築群の実験場になり、時にそれは玄関先まで溢れ出したという。
建築こそが究極の芸術表現であると、シュビッタースはメルツ・バウを標榜し、差し出されたキャンバスにクルト・シュビッタースをではなく、メルツと書きなぐる。
帝国の崩壊、革命、二つの世界大戦をはさみ思想的にも混沌とする当時よりも、価値観の多様化した現代、私にはシュビッタースの作品群は既成概念を爆破する爆弾としての価値を持つように思われてならない。