FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

shaker style...yaeca...at source objects.
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hella jongerius.... ps jonsberg...
ikea jonsberg...


手工芸は現代では複雑な技法とシンプルな作風を生み出し、そこに多様性はあっても多くのニーズは引き出し得ないのが現状だ。ヘラ・ヨンゲリウスのハンド・クラフトによる、彼女を評価する上での重要な作品は、個人の収集家やギャラリー、美術館や博物館の依頼によって製作された物も多く、それぞれ複雑な製作過程を経た高価なものばかりだ。
イケアの為の安価な大量生産されたヨンゲリウスによる花瓶は、あくまで彼女のハンドクラフトの高価なベースに由来している。それは中国のイケアの契約工場でハンドメイドで製作され、それぞれ手書きの文様、アフリカで出土された土器のたぐい、手で一つひとつ穴が穿たれ唐草の文様が描かれた東洋的な凝ったもの、と四大陸とそれぞれの異なる文化をイメージした4種類のヴァリエーションで構成されている。
それらはベースとなるプリミティヴな一つの形状を彼女によって与えられてはいるが、それぞれが異なるコンセプトに従って、異なる文脈、異なる技法で製作され、マテリアルも磁器、セラミック、赤粘土など多様、それらは世界の陶芸の歴史の中で型作られてきた伝統の多様性を表現しているものともいえるのだ。
イケアのユニークなデザイナー・シリーズ、PS IKEAは世界の28人のデザイナーにイメージソースを求めた野心的な作品だ。

彼女は自らの作品がしばしば高価な傾向にあることを隠しはしないが、PS IKEA のシリーズの中の『PS JONSBERG』のように安価で誰でもが手にして、日常の生活の中で愛でる事が出来る現実を、喜ばしいことと思いこそすれ、嘆かわしい事と思ってはいない。
それでも個人的な美意識の文法に則って作品づくりをしてきた彼女にとって、イケアのように大量生産・大量消費の巨大メーカーとの仕事は当初彼女に不安と、少しばかりのストレスを与えたという。
しかし大量生産・大量消費を標榜するようにみえる輸出大国スウェーデンのイケアであるが、PSシリーズに限って小数ロットでの生産であり、実際に店頭に足を運んで、手にしてみなければならない。そしてそれはいつもの馴れ親しんでいるイケアの他のプロダクトとは僅かに異なっていて、少しばかり個性が突出しているように見える。
そして重要なのがPSシリーズのコンセプトの一つがエコでリサイクル、環境に対して配慮が感じられる点である。
2006年現在ヘラの『PS JONSBERG』の花瓶のシリーズは4種類のデザインのうち、3種類がリリースされている。
リーズナブルという安価なコンセプトはともすると消費者に優位に立つあまり、作品コンセプトがお座成りになりがちで、その作品本来がもっている崇高なコンセプチュアルな部分が失われがちであるが、ヨンゲリウスの『JONSBERG』には奇跡的にそれらが作品そのものに備わっている端正なイメージとして保持されている。
しかし、コストやそれに掛かった経費が作品そのものの評価や、価値に繋がったりしてはならない、とヨンゲリウスは主張する。
それは彼女の言葉に従うのなら、『私たちが単にマネーの問題に捉われたりすれば、その時世界は非常に貧しいものに見えるでしょう。』という言葉に集約されているようにみえるのだが。

photo: designws.com
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hella jongerius for ikea...
jongerius for IKEA















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kurt schwitters merz...
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campana brothers... 3-3...landscape...
cb


カンパーナの果敢なデザインスタイルは、デザインという概念におけるヨーロッパ的なものの考え方の、植民地的支配といえるようなものに対する忌避でもあり、それはブラジル的なデザイン概念の確立の為の挑発的行為でもある。

彼らはブラジルという「祝祭の国」において生まれたデザイナーであり、それらの概念に無縁ではありえない。
彼らにとってブラジルという国の置かれた状況と作品との間には寸分違わぬ親和性が見られる。
カンパーナ兄弟のひらめきは、ブラジルという存在そのもののひらめきであり、それは我々日本人のひらめきがその地理的風土に影響される事となんら変わりのないことである。日本人が日本人である以上、日本的文化は我々にとって異文化ではありえず、それは我々の中に存在する必然的なものだ。

カンパーナの革新的な作品背景にはブラジルのハンド・クラフトの高い技術力が存在する。彼らもまた自国の文化と歴史、その革新性に寄与するところは多く、彼らとてその事には自ずと自覚的である。
彼らはブラジルという国が彼らにあって、創造の大いなる源泉である事をつねづね公言してはばからない。
ウンベルトの直感的な深い洞察というインスピレーションと、フェルナンドの職人的な精緻さと厳格な思考と構造的な確かさ、それらが彼らのユニットには不可欠な創造的要素になる。それは家族ならではの深い尊敬と、身近さ、それらが合わさることによって生まれる創造の基軸の揺るぎない根幹、それは創造的な大地にあって有機的な作用を作品に及ぼす重要な要素となる。

彼らが生まれ育った時代におけるブラジルの歴史は、軍事独裁政治の時代であり、彼らはその中で思春期を迎えている。芸術家の、自国民の創造的自由は失われ一つの暗い時代であったと、彼らは振り返る。しかし、子供達の内面にそれらの外的状況が暗い影ばかりを投影していたかといえば、そうとはばかり言えないのが常である。

反体制的な運動は芸術家達によって始まり、それらの思想は奥深い山奥の湿地帯の植物のように、深く彼らの内面に浸透していった。
彼らが通り=ストリートである啓示を受け持ち帰った材料達は、彼らのスタジオの机の上に置かれるとき、深いインスピレーションの泉に中でたゆたう一筋の鉱脈になる。彼らはそれらのなんでもない材料を注意深く吟味し、深く想像し、ある一つの必然的な形状という意味を付与する事に長けている。それは一見して容易い事に伺えるが、それには容易ならざる周知な修練が求められる作業である。

ブラジルという国には、まず太陽があり、大地があり、人間がいて、祝祭的空間が生まれる。
そこには物質的豊かさには還元出来ないファンタスティックな要素が付きまとう。それが我々がブラジルという国に惹かれる理由である気がするのだが、太陽と大地はこの国にあっては、リズムと、芳しいばかりの香りを放つ源泉にもなる。
カンパーナ兄弟が創作するサン・パウロという都市も、東京の街と同じように都市は無軌道に拡大し、そこには同じように豊かな人々が暮らし、商いを営み、路上には子供達がいて、ホームレスが眠り、それらは同じような近しい我々の都市の風景となる・・・
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andreabranzi...domestic animals
andreabranzi.1


アンドレア・ブランジが引き合いに出すところの現代的な生活様式とは、我々が居心地の良いソファで過ごす時間の長さに比例して、余りに人間的な幸せが失われている事に対する危惧であり、「neoprimitive style」と題された一連のdomestic animalsの家具シリーズはそういった現代的な幸福に対するアンチ・テーゼを投げかける事である。
それは華々しい戦後イタリア・デザインの歴史の中においてブランジが一貫して唱えてきた考え方であり、それは建築の理論家としての彼の論理によるところが大きい。それは彼の脱工業化社会の論理に由来する。それは彼がマテリアルに定めるところの材料の選択から始まり、それを配置するところの記号論的要素を、もの自体から引き出す行為である。

アジア的な「竹」をモチーフにしたものや、枝を断たれただけの自然の状態の木の幹を背もたれにもつ椅子、それらはポスト・モダン然としていて、原初的でプリミティヴ、挑発的なスタイルをしているが、大量消費、モダニズムの思想の否定であったり、アナーキズムをその表現に含んでいる。
アンドレア・ブランジにとってDomestic Animalsは一つの概念であり、今を生きる我々も、共に共有し得る重要な思想である。
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andrea branzi...
andreabranzi















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campana brothers... 3-2
campanas2


同時代に生きるものに、誇り豊かな想像力を喚起させる、カンパーナスのものつくりのプロセスは、紋切り型の、どこから示しても似たような、近似値的なミニマルなもの作りとは根本的に異なるところにある。
それは混沌とした日常の中に生きる生活者に対するあからさまな賛辞であり、祝祭と安息の結合でもあるのだ。
人は経済的、思考的制約をよそから与えられた時、そこから逃げ出す方法と、それを受け入れ、その制約の中で最良の方法を見つけるという、二者択一を迫られるが、ウンベルトもフェルナンドも常々その制約の中でこそ何かをしてやろうという強い意志と、志向をもっている事は確かだ。
機能は制約の中にこそある、とはよく言ったもので、それは明らかに空想の産物である。現実の生活の重力、もしくは、浮遊感と言えるような態度をつねに頭の中に叩き込んでおく事と、日常からかけ離れたかに見えるカンパーナスの、一見シュールなオブジェクトは、かけ離れているように見えて実は非常に近しい。何故なら彼らはいつでもサン・パウロのスタジオの机の上に帰る事を知っているのだから。

兄ウンベルトは1953年生まれというから今年52歳、弟フェルナンドは1961年生まれの44歳というから、常づね男の兄弟に見られるように、弟はある意味兄の支配下のもとに思春期を育ち、影響を受けて育ってきた。兄ウンベルトは法律を学び弁護士として独立する。弟フェルナンドは建築を志し、建築と並行してもう少しスケールの小さなものとしてのプロダクト・デザインを学ぶが、彼は建築という大きなスケールのスタイルよりも、よりスケールの縮小されたプロダクト・デザインの方に自分の思考が向いている事に気付き、より生活に近い、実用的なもの創りを志すようになる。その頃、兄ウンベルトも平凡な弁護士としての自分の存在のありように疑問を抱き、彫刻のような、より精神性に富んだもの創りの方向性を自らに示すようになる。

彼らの故郷ブラジルの首都ブラジリアは、標高1,100メートルの高地にあり、ルシオ・コスタによって都市計画が施され、主要な施設の設計をオスカー・ニーマイヤーが手掛ける。1955年、時の大統領クヴィチェックにより遷都計画が提出され1960年リオ・デジャネイロより移都される。この事により南米大陸にあってこの国がモダニズム・デザイン大国である事を声高に示した。高原の中に突如として姿を現したその未来的な景観は、都市全体がモニュメントのようでもあり、都市機能の中心・頭脳として、バーチャル都市としてのイメージが強い。
サン・パウロは工業国としてめざましい発展を遂げたブラジルの、生きた人間のいる街としての活気に充ち、ブラジルという国の真の意味においての中心であり、人種のるつぼ、人口密度の過密さ、濃厚な血脈のどれをとっても他の主要な都市にはない濃密な世界観を形成している。
経済的に発展しているこの国だが、貧困、環境破壊、インフラの問題、社会的立場の不平等、ファヴェーラ(貧困地域)に代表されるスラム化など、国内にあらゆる地域格差を生み、子供達に満足な教育や衛生的な環境を与えられずにいるという、諸問題を抱え、今なお混沌としている。
それでも生きた人間のいる本当の都市としての、美しいストーリーを紡ぎ出す不思議な魅了に溢れているのはなぜか。

カンパーナスはその作品作りにおいて、ある種のひらめきに頼ることを隠さない。
そしてそれが、しばしば彼らが語られるところの、自国の、世界の中に置かれた状況をひた隠しにせず、その混沌は彼らの作品に反映され、その作品が決して他の国では生まれ得なかったであろう『祝祭』のかたちを生む事である。
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salone del mobile milano 2006
salone del mobile milano 2006















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what a wonderful world....campanas.3-1.
campanas


赤道直下の町マカバを通り、南回帰線がサン・パウロの真下を通る。1億年前の地殻変動にともなう緩やかな大陸の移動が、一つの大陸を形成していたこの大地を、現在の北米大陸と南米大陸とに分かち、そこに住まう動植物の姿かたち、生態系のはぐくむリズムをそのままに、その大陸の記憶ともども封じ込めている。

カンパーナ兄弟にあっては、その作品作りにおけるマテリアルの組み合わせは予想外のものであり、それが彼らによって選ばれ、程なく作品作りに反映される時、一見珍妙ないかなる組み合わせもいかんなく彼らのハイクオリティな想像力に溢れた作品へと昇華される糧になる。

多様な様相を形成しながら地域性に富んだスタイルを形作り、デザインにおける高度な技術を使用して、彼らの故郷ブラジルの文明社会を開帳して見せる事が、現代に於ける一つの重要な使命になっている。それは、ヨーロッパ中心の偏重的なデザイン観念を、デザインする事の根幹において揺るがす行為を、カンパーナ兄弟自身が標榜する事からも分かる。
退屈な日常生活からの逸脱はそれを図る事によってのみ、その目的を達する事が出来るとは、60年代の思想的な風潮を表すノスタルジックな響きを持つ言葉であるが、それは現代社会においても何らかの意味を持つ。

重要な事は、到底家具というものの概念から遠く離れたマテリアルを使って、より日常的な物を作り出すという行為であり、それはプラスチック製のチューブや梱包用のロープであったり、街で拾った廃材であったり、おおよそ家具というものの概念から遠く離れる事であればある程、より強烈にインスピレーションを刺激し、見た事も無いかたちと、肌触り、五感そのものに伝わる、感覚的な相貌を付与する事に寄与する。
それは深く腰を沈ませる事によって伝わる肉感的な感触であったり、おおよそ日常的な脈略から逸脱すればするほど、深くわれわれの精神に染み渡るたぐいの体験であったりする。
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