FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

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美術としての写真と映像
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昨日は雨のなか新宿へ「1970年代へ写真と美術の転換期」展を観にYumiko Chiba Associates viewing room shinjikuへ。1970年±5年くらいに発表された4人の現代美術家による写真作品を展示。植松奎二氏、高松次郎氏、眞板雅文氏、若江漢字氏の4名。それぞれ彫刻、ペインティング、前衛芸術を出自にもつ現代美術家であるが、作品表現のために写真や映像をつかった。
この時期、高度経済成長とともに写真や8ミリといった記録メディアが一般にも普及し、それとともに現代美術におけるパフォーマンスや無形のアートなどを記録する手段として、それらが使用されるようになった。

それぞれ現代からみても興味深い作品ばかりであったが、特に印象に残ったのが、以前から好きだった植松奎二氏の作品と、高松次郎氏の写真を写真におさめた作品「写真の写真」。家族の記録写真を日常の一コマにすえ、印画紙に焼き付けられた日常写真を被写体とした写真作品は、あとにも先にも高松氏が残した最初で最後の写真作品とのこと。
共通していそうなのは、複雑多様化していくメディアに対して、それを批判的にとらえる試みとして、写真や映像が用いられたこと。高松氏のスナップ写真を撮った作品は、被写体となる写真を折ったり、歪めたり、光に反射させていたりで、現代でも充分にリアリティのある表現だが、とうの高松氏本人が、後にも先にも、「写真の写真」以降、写真作品を発表していないことが、すべてを写すと思われている写真への批判的なそのスタンスを明確に表明しているようにみえた。

当時、写真よさようなら、来るべき言葉のために、というような写真というメディアの精鋭化とともに、表現としては一般化し陳腐化が進行するなかで、アーティストにとって写真はありのままの現実を自動的に写し出すものから、批判的に乗り越えるものに変わった。それは真摯たる写真家にとっても共通認識であっただろう。

これらの美術家たちは、'60年代のアート運動である、フルクサスやハプニング、ポップアート、ネオ・ダダなどを通過し、EXPO'70におけるお祭り騒ぎを経て、頭でっかちな既存の美術乗り越えのための批判的な芸術運動を展開した。その根拠とするものがなんだったのかはわからないのだが、そこには前時代的な抽象的表現を極めるまえに、もっと直接的な「身体的表現」があったことは疑いようのない事実であるだろう。同時期イタリアでは'60年代のラディカーレ運動を経て、73年には反デザインの運動「グローバルトゥールズ」がデザイナーや建築家らによって組織され、日常の道具や当のデザイナー本人の身体をもちいてデザインなき身体的な実験を行っていた。
'70年代当時の植松奎二氏らの身体と道具を使った、一見滑稽なパフォーマンスともとれるアート表現は同時代の問題意識とし共振していた。

それと、今回のエキシビションをみて、あらためてこの時代の美術表現の中心に写真や映像がもちいられていたことがうかがえ興味深かった。写真に対する考え方や捉え方は時代とともに変化する。それは先立つ'50〜'60年代のそれともすこし違っていたことも興味深い。ポップアートは既存の写真をイメージとして使用したが、70年代前後の芸術家は写真を自ら撮影したことなど。今回のエキシビションは、ちょうど現代美術家と写真や映像との関係が気になっていたので、それを考えるのに良いきっかけになった。ギャラリーの資料室でみた古いカタログに掲載されていた眞板雅文氏の海の写真と等身大写真も素晴らしかった。実物をみてみたい。

「1970年代へ写真と美術の転換期」展パート1は、昨日で終了、明日からはパート2が行われる。このエキシビションでフューチャーされるアーティストは植松奎二氏。今から楽しみである。

写真は本エキシビションのDM。潔くてかっこいいグラフィックス。右のKim Beomさんの本は韓国のSulangさんにいただいたもの。韓国の現代美術家です。


「1970年代へ写真と美術の転換期」
Part 2 : Solo Exhibition    植松奎二 
2011年10月7日〜10月29日
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