FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

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適正価格について


藤崎さんのブログ「ココカラハジマル」の記事、「『適正価格の空洞化ー「ふつう」の背景』を読んで思いついたことがあるので少々メモをとってみたい。これは11月6日付産経新聞関西版夕刊に掲載されたものを後日藤崎さん本人がブログ用に加筆して掲載したものとのこと。藤崎さんのブログを読んでの感想はすでに、Twitterの方でリアルタイムでつぶやいたのだが、ここでは僕も少し補足をしていきながら書き進めていくことにする。この記事についてお話は、先日藤崎さんと浅草にある居酒屋「以志田」にて二人でした雑談のなかにも出てきたのだが、あらためて記事を読んでみると、デザインについて書く者のハシクレとしてとても考えさせられた。
でも、こういった内容の論考をデザインジャーナリストである藤崎さんが新聞で発表できるのは意義深い。

このテキストを読んでまず僕は当然のことながら、一般に言われている、「物」の「適正価格」というものに思いを巡らせた。
物の値段はそもそもその物の価値とは違うから、物の値段はそれを作るためのコストに関係してくる。それはわかる。どの材料で誰がどのような行程を経て物を作るか。それでだいたいの値段は決まってくる。そしてそこに更に、流通というものが加わる。
例えばアマゾンで書籍を買ったとき、新品で買うか、中古で買うか、もし中古で充分であれば無理をして高い新品を買う必要もないから、中古を買うとする。するとアマゾンで買った場合、だいたいの場合送料が無料であるが、中古業者で購入すると決まって送料が商品代金以外にも加算されることになる、そこで新品と中古の値段と価値をその商品の価値に秤にかけ、選択することになる。

少々横道にそれたが、商品にはそのように新品と中古品、そしてその価値の検討といった、その物の本来の価値とは関係のないところでの選択、というものも入ってくるから、まったく難しい。言い換えれば、新品と中古品といったモノのあり方の違いの比較だけで、適正価格というものの標準化は揺らいでくる。

だから僕個人においての物の価値は、物に対する必要性を前提としながらも、僕個人がもつ主観的な物に対する見方や価値観で決まる場合が多い。もちろん、その主観的な価値観は、他人のつけた価値観や、「トップセールス」といったたぐいの統計的な商品ランキングにも左右されたりする。しかし、そこには相対的な点において、「物」と「お金」を物々交換している感覚がある。
ある物に僕はいったい幾ら支払うことが出来るのか?当然だがそれはその時点での経済状況にも左右されるだろう。あるいは今後自分がどれだけのお金を仕事の対価として生み出すことができるのか?そしてそれをどれだけの期間継続していくことができるのか?
大きな買い物をする時ほど、その事に意識せざるを得ないのは、当然だ。

またまた本題から横道に逸れた。だが、物の価格という点において、いかにこれら個人が生み出す妄想とも幻想とも言える主観的な「価値観」を物にこめてしまう「ストーリー」を排除して、物の適正価格が付けられているのか?そのことはまったくもって不明だし、あり得ないのではないかと思えるくらい、現在の物の価格とは、本来、物が成立するための背景にある「もの作りのストーリー」とはかけ離れているし、逆にそのストーリーに依存しているともいえる。
いったい現在このような考え方がどれだけ生産する側で意識されているのか?

物にストーリーをこめることは、物本来の価値が見えにくくなってしまった現代において、「物」の価値を可視化するためには有効な手段であり、過剰に物のストーリーを喧伝することで物の価値を成立させているともいえる。それは時流でもあるが、ある種の物はその物の背景にあるストーリーを意識的に「隠蔽」することで成り立っていたりする。
それが藤崎さんのテキストのなかで指摘されている、「わけあって安い」の”わけあって”のわけを巧妙に隠し、物の値段で言い訳するための適正手段になっているのかなとも思う。「マクドナルドの期間限定&時間限定で行った0円コーヒー」や、甘くておいしいチョコレートには、「コーヒー豆を収穫する貧しい労働者の記憶はこれっぽっちも残っていない」のだ。

藤崎さんの論考はこのあと「空洞化された適正価格をデザインする動き」を適正価格というものが見えなくなってしまったことと、「ふつうという共同幻想の操作」、「ふつう」をデザインすることへの危惧と警鐘で締めくくられている。

もし価値=価格が、他のものとの比較によって生まれるのであれば、もはや価格や価値などは一元的なものにすぎず、物を買う行為は自分で稼いだお金と物々交換することにすぎない、と割り切ってみるしかすべはなくなってくる。
だから僕らはむしろ原点に立ち返って、物が生まれる背景や、その物のつくり手に対し、その物を買うことで評価する買い手の意思を尊重するのと同じくらい敬意をもって接する、そんなところから始めたらいいのではないかと思っている。

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