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今日のジャーナリズム 勝手メディアの可能性 1


ジャーナリズムの世界において21世紀の初頭ゼロ年代は、新聞や雑誌などの既存のメディアとともに、ウエブを中心にしたブログやBBS、2ちゃんねるなどのいわゆる勝手メディアによる(きままな)批評が台頭した時代として、その歴史のなかに位置づけられのではないかと思っている。

これまでの新聞や雑誌といったメディアによる執筆者の批評文を編集者による校正といった幾重かのチェックを経ることで、個人の社会や事象に対する考えが社会的な位置づけを得られる時代はそれはそれでまっとうな意味をもち、個人の言論が信憑性をもって社会にでるためのシステムとしてはこれからの時代も有効だろう。
しかし、ゼロ年代に顕著な勝手メディアにおいて、そのカッコ付きチエック機能が物理的にはずされ、公にむけての自由な言論が可能になったとき生まれたものは、それぞれの時代のニューメディアが偏見とさまざまな淘汰を経て生まれた進化論的な進化の文脈にはのらない、歴史の蓄積のないまったく新しい批評の空間なのではないだろうか。

旨いものの情報は雑誌や新聞のなかより早く、ブログや2ちゃんねるなどの勝手メディアによる口コミにのぼり、今日刊行されたばかりの書籍の批評、テレビの番組案内、イベントの批判はその日のうちに世界中のプライベートリビングで共有される。

確かに2ちゃんねるにみられる後先を考えない傍若無人な無責任な書き込みや、ブログにしばしばみられる自己顕示欲と主観だけのエントリー、歴史認識のあまい事実とは異なるエントリーはあとをたたないと批判される。
けれども一見客観的にみえる雑誌による新製品や商品案内の記事が、それ自体が誰かの利潤を生むための、対価を支払って客観性を装られた広告であることは今や誰もが知ることだ。

そんな経済に翻弄された政治の腐敗と同じような理由で、われわれと同時代のメディアの失効が語られるのであればそれは悲しい。もしかしたら今までじゃナーリズムの舞台として主流であった新聞や雑誌というメディアが、いまや真実よりも経済や利潤とわかちがたく結びつき、本来の意図を失ってしまっているとしたら、社会のさまざまな相関関係の背後と表に貼り付く矛盾と正当をつくはずの、編集者や執筆者がいるにも関わらず、彼ら自身が経済にとらわれて身動きがとれなくなっているとするならば、それは新しい10年代に向かって今こそ何か行動をおこさなければ、新しい10年代はゼロ年代の負の側面だけを担保したままに過ごす、ぬるま湯のような時代になるだろう。


※写真は写真家荒木経惟氏の生家がある三ノ輪です
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