FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

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都市というアーキテクチャ ライブラウンドアバウトジャーナルによせて
PM5:07

1月末に開催されたチームラウンドアバウト主催によるライブラウンドアバウトジャーナル2009(以下、LRAJ )を聴講してきた。今回の特色としてはゲストに関西を拠点に活動する建築家、デザイナーが3組参加したことだろうか。会場からは東京のイベントになぜ関西から?なんて声も聞かれたりしたが、個人的には昨年一年間何年か振りに日本各地を幾都市かめぐり、土地土地でその地を拠点に活動するクリエーターに何人かお会いしたが、こと建築やデザインにたずさわる人たちに東京と、いわゆる地方との違いはまったく感じられなかった。
むしろ訪れた土地でその地の人びとと話していると、その町を訪れた自分が完全アウェーに感じられることもしばしばであり、同時代を生きているという同じバックグラウンドをもっている者同士どこに暮らしていても同じ問題を共有しているように感じたものだ。今回のイベントも結論からいえば、ここが東京であるという地域性があるせいか、大阪から来たデザイナーたちがその人間的存在の強さで目立っており、その大きな声を聞いているだけでも、彼らの言葉の端々に自らの仕事ぶりに自信がうかがえて心強く感じた。

そんな存在として、あるいは人間としての力強さも今回藤村さんが彼らをゲストに選んだ理由のひとつにあるのだろうか。たしかウェブサイト「ラウンドアバウトジャーナル」を読んでいると藤村さんが積極的に東京以外に出向き、あえて自らをアウェーの立場におきながら、建築に問題を閉じながらある意味自虐的に議論を繰り返してきたことは興味深い事実だ。実際に広島での「若手建築家のアジェンダ」に一人の聴講者として参加した身としては、同じ東京から訪れた立場から、直接的に間接的に藤村さんを擁護したくなるような、そんな場面が何度かあったのだが、それくらいどのような場面でも藤村さんへの風当たりは強いものがあるのだが、公開討論→懇親会→二次会→三次会と進むにつれ、藤村批判が藤村擁護に変わっていくのは、少ないつきあいながら一貫した流れで、これはなんなのだろうか?といつもあっけにとられてしまう。
もちろん大阪から来た彼らを迎え討つかたちに映った東京の建築家の皆さんも極めて知性的で言論、存在ともに純粋に羨望した。
特にmosakiのお二人は初めてお会いしたのだが、青山同潤会アパートメントの保存活動をする有志から生まれた編集ユニットということで、同潤会アパートメントの保存運動の動向には当時個人的にとても興味があったので、具体的に地域に関わりながら活動をされていたお二人にはたいへん興味がわいた。最後のディスカッションでのmosaki田中さんの議論を社会に開いていこう、というような信念の伝わる力強い言葉も僕の心にはひどく響いてきた。

話を今回のイベントに戻すと、すでにさまざまなblogで参加建築家の皆さんのレクチャーの模様はレポート済みなので、そちらは皆さんのレポートにおまかせするとして、僕なりの印象をいくつか記してみたい。
まず、建築とは異なるジャンルの論客を議論にひきいれるのが藤村さんは好きなようだ。それは藤村さんのテキストにもあったが、議論の鮮度を保つ、異分野の人を議論に入れることで新たな議論の平面をつくる、しいてはそれが関係性を構築することにつながると考えているようだ。その考えには僕も同感する。
藤村さん主催のトークイベントにはしばしば名を連ね、批判的工学主義にも名を連ねている社会学者の南後由和さん、そして今回はLRAJの数日前に東工大で行われた講演会「アーキテクチャと思考の場所」(僕は未見です)にも講師として参加されていた情報社会論を専門とする濱野智史さん。

南後さんの参加は以前に10+1誌上で展開されていた批判的工学主義に関する議論やテキストを読めば明らかなように、社会学や人文系の豊富な知識を武器にした彼が建築を軸にした議論に加わることで、「建築」および「建築史」が建築家だけのものではなく、社会全体の成り立ちやそれを客観視する思想界と密接に関わり、ときに双方が双方を牽引し、ときに引きずられるように都市に亀裂のようなあやういものを生じさせながら、建築が権力と結びつき、いま目の前にある風景としての広がりを形成してきた理由がぼんやりとだが見えてくる。

今回後半のディスカッションにその南後さんとともにコメンテーターとして登場した濱野智史さんは、近著『アーキテクチャの生態系』で話題の、2ちゃんねるやニコニコ動画など、ネットコミュニティについての詳細な分析がジャンルをこえて注目されている新世代の社会批評家だ。今回のLRAJでは濱野さんは総括コメントの冒頭で、建築については部外者だと謙遜されていたが、乾さんが今回プレゼンされた広告的な外観をもった浅草観光センターコンペ案を評するくだりでの、建築の外観をウェブページ上に貼り付いたバナーに例えて語るところなど切れ味があってさすがだと誰もが感心していたに違いない。
また今回の建築の議論に自身のインターネット論の基盤にもある「アーキテクチャ」(元はアメリカの政治学者で、サイバー法の第一人者ローレンス・レッシグがとなえる法、市場、規範にならぶ人の行動を規定するもの)を持ち込み、アーキテクチャ=設計=環境管理型権力をネット、建築、都市構造、しいては社会全体にその枠組みを拡大して語ることが重要なのではないか、と言おうとしていたのではと個人的には思った。

例えば、全くの自由にみえるネット環境における人のふるまいも実は、本一冊購入するためだけに、いくつもの認識確認をさながら実世界におけるセキュリティゲートを通過するようにクリアしなければならないことを思い出してみたい。ネット環境における自由とはそのように不可避に張り巡らされたシステムのに、それと判らぬように巧妙に管理されている。
いくつもの規制を張り巡らして人のふるまいを無条件に規定するネット環境におけるレッシグがいうところのCODE、「アーキテクチャ」を反面教師のように、建築はあたらしい方法論を手の内を見せるように社会に開示し描くことで、そんな人の自由なふるまいを規制するサイバー上の「アーキテクチャ」とは異なる方法で、建物という人工物質で満たされた都市における人のふるまいを、今より人間的な良い方向に規定=導くことができるようなアーキテクチャ=実世界における建築で作り上げることができるはずだ。それはユーザーが知らぬ間にさまざまな規制事項に無意識のうちに舵取りされ、行動が規定されているあやういインターネットメディアの状況に精通した識者からの、建築界への警鐘をこめた提案であったように僕は思った。

その濱野さんの提出したアーキテクチャという概念が今回登場した建築家の皆さんに問題意識としてどれだけ共有されていたか定かではないが、ネットにおける法としてのアーキテクチャという概念が、彼らが10時間以上をかけて熱意をもって語った建築や都市とは無縁ではなく、むしろ地続きな概念だけに、それをこのそうそうたる若手建築家たちが集うイベントにもち込むことには相当に価値があることだろうことは想像にがたくはない。
僕自身いままであまり考えることのなかった、アーキテクチャというネットの世界に張り巡らされたこの権威的なものの意味について考えることの機会となったという意味においても、この長大なライブイベントに傍観者の立場とはいえ参加することができて良かったと思っている。
そこでふと思ったのは、都市がネットのアーキテクチャのように表層にあらわれる暮らしというコンテンツを、深層によって無意識に人のふるまいを規制する規範になっているのではないか、ということ。都市において人は自由にふるまっているようにみえて、実はさまざまな障壁によって規制されているではないか。それは都市そのものがアーキテクチャとして機能している理由にはならないかもしれないが、都市は物理的なセキュリティゲートなどの設置によって僕たちの自由な行動をあの手この手で規制している。

PM5:09

同じ方向を向きながら議論をすること。時に異なる方向を向きながら互いに相いれない答弁をすること。それをこのような開かれた議論の場ですることは、そこで語られたことがそのいずれかのものであってもだからこそ意味があることだと思う。いかなる言葉にもそれ相応の力と意味があり、空気のようにその場を共有するもの全てのあいだにその意味がゆるやかに広がって浸透していくことがなんとなくわかった。一見閉じた議論であってもそれが社会のほうに向いた議論であれば、それはいずれ全ての人にとっても有益なものになるだろう。

終盤の多くのゲストが集まったディスカッションのなかで、聴講者の立場ながら議論に軸を生む困難に呆漠としながらも、そのディスカッション後半で生まれてきた、建築がもつであろう社会性の問題を、それぞれの建築家の建築作法と方法論や、その発言の社会性の有無に結びつけたあたりの議論では、個々のゲストのスタンスが相対的にではあるがなんとなく浮かび上がってきたようにみえた。
個々の建築家のコンセプトとともに、建築家に固有の方法論を社会に示すことで建築は社会性を獲得すべきことを示すこと。
あるいは建築がもつ社会性を建築家固有の思考のなかに限定せずに、社会や建築家ではない個人が具体的に建築に関わることで建築に普遍性をもたせること。
どれだけ多くの人に個々の建築で、建築をみんなにとっての共有の財産として愛されるようにできるのか。
二次会では大阪の柳原さん、ドットアーキテクチャーの家成さん、広島からかけつけてくれた谷尻さんたちと、それぞれの異なる地域性を踏まえながらデザインや自分たちについて語りあえたことも収穫であった。
この同時代的に稀有なライブラウンドアバウトジャーナルという議論の場を設計するチームラウンドアバウトの活動をうけて、有意義なあらたな議論の場の必要性を感じた一人として、静かに熱く人びとのあいだに確かな意味を持ちながら浸透していく言葉とテクストを、発言し書いていくことを再確認した夜であった。

PM8:57

DATE:LIVE ROUND ABOUT JOURNAL
2009.1.31.SAT
AM10:00-PM10:00
INAX GINZA
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