FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

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普通のデザイン
taka

インテリアデザイナーの内田繁さんの本を読んでいる。読んでいる最中なので何か曖昧な表現になってしまいそうだが、内田繁さんの言葉は今の時代の、あらゆる場面や、あるコトを行うときのヒントに溢れているので、自分でも何か言葉にして整理しなければならないような気がして、つれづれに書くことにした。
イタリアを中心に世界的に評価の高い内田繁さんの仕事は、今も昔も日本という国がもつ文化的土壌の上にこそ成り立っている。
それがこの国にあって固有のものであるのかは、おそらくこの国の文化が西方、それも中国や韓国といった、比較的近くの大陸の国々からの影響を受けて形成されてきた歴史的背景をみるかぎりそうと言い切れないものがある。

内と外、室内と外部、その2面性を内田氏は明確な何かではなく、いかにも曖昧なもの、言い換えれば内と外をあえて曖昧なままに区切るその文化に日本固有の自然観をみているように感じた。

その論考が現代にあって的確な恐るべき力を持つほどに刺激的に私には感じられたのだ。
それは元来日本の家屋は西洋の石やコンクリートといった絶対的な閉塞感を生む壁にではなく、紙で出来た屏風や、木材でできた縁側、植物の植栽などで内と外を区切ってきた。しかもその境界は家の中にも存在し、それが畳のへりや、蚊帳やふすま、暖簾などいたるところに存在することに注目する。

内田氏はそのインテリアデザインの仕事の中で『茶室』作りを幾度となく実践している。
その茶室は日本人的な感性を如実に表すものの象徴となっており、そこに置かれるモノや行われるコトを含め、『わび茶』の世界観に共鳴を示している。

それは靴を脱ぐという極めて日本人的な身体感覚に結びつき、それはまた靴を脱ぐという行為のうちに、必然的に「内」と「外」という概念につながる。

過去にさかのぼれば日本人の住まいには壁があることは稀で、それは屋根と柱という極めてシンプルな構造で成り立っていたという。ならばいかに内と外が仕切られていたかといえば、それは縁側や屏風といったもののみであったという。それがさまざまな日本固有の文化を生んだことは想像に難くはない。

そこから読みとれるものは、住まい全体の通風を考慮し、空気の流れを乱さないことであるという。
日本独特の夏の蒸し暑さを「モンスーン型森林」気候に例え、空気の流れのない湿気た環境は疫病を発生させる元凶ととらえ、日本の住まいは夏を基本に考えられて作られているという。ならば冬の寒さは、ということになると、それは着るものや掛けるもの囲炉裏などでどうにでもなる。

また日本人にあって特徴的な感情である情緒を『弱さ』に結び付けて、その感情的なものを、デザインや政治を含めて今後の世界をクリエーションすることにおいて肯定的にとらえていることには注目するべきだ。20世紀が「強さ」の時代でそれが圧倒的な暴力と、インターナショナリズムという均一化を生んできたとしたら、本来日本人が持っていた『弱さ』という情緒こそが21世紀のデザイン、しいては今後の世界を下支えする思想になるのではないか?
大量に作り大量に消費する時代は終わり、本当に必要なものは何なのか、それをもがきながらでも模索しなければならない、場合によったら後退さえも進歩につながるような。常に前線にいることが美徳の時代は終わった。
そんな問いかけや提案が豊かなクリエーションに繋がって、エコロジーやサスティナブルデザインが引き合いに出される現在において重視されるべきではないかと思う。


※記事と写真には関連はありません。もっとしっかり読み込んで意味を咀嚼したらまた続きを書いてみます。ちなみに写真は益子参考館で撮影したものです。孝、恥、とは...
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