FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

ちいさなスケールと、建築の大きなスケールと
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骨董通りにあるドイツの老舗ジュエラーNiessing(ニーシング)の店内では、建築家中山英之氏によるデザインのリングの発表と、ニーシングのジュエリーを用いたインスタレーションが開催中。
ニーシングは、1873 年にドイツに創業したバウハウスの流れを汲むコンテンポラリージュエリーブランド。

今回、中山英之氏は、ニーシングのグラフィティ・リングに新たな息吹を吹き込むオリジナルドローイングが施されたリングを発表。繊細な中山英之氏のドローイングが、ちいさなリングをキャンバスに無限の広がりを感じさせる作品となっている。
店内には、中山英之氏のフォロワーにはお馴染みのいくつかの建築のコンセプトモデル 3点がニーシングのリングとともに展示。リングを360°すべての角度からみせるために考案された回転台にも注目したい。大きなスケールとちいさなスケールを横断する中山氏らしく、ニーシングの装飾性を排したリングと見事な競演を果たしている。

写真は中山英之氏の重ねたテーブルが建築となることを示すコンセプト模型「小さすぎるビル」における、ニーシングのジュエリーの代表作である、地金の張力だけで中央のダイヤモンドを支えるデザインがオリジナルな「ザ・ニーシングリング」の展示。リングが醸し出す張力による緊張感と、重ねたテーブルが建築になる新しいバランス感覚が調和した作品だ。

普段は女性でなければなかなか入りづらいラグジュアリーな印象がするジュエリーショップだが、店内で接客を担当するスタッフの方々もとても親切で、ジュエリーに縁のないぼくにもとても居心地がよい空間であった。ぜひドイツの老舗ジェエラーによる卓越した職人技を堪能しつつ、中山英之氏の建築の世界観に、ぜひ触れたいただきたい。

11月2日(土)には本展ディレクターの岡田栄造氏(S&O DESIGN)と中山英之氏のスペシャルトークイベントも企画されている。


’ Graffiti’ Rings by Hideyuki Nakayama
開催中〜2013 年11 月10日(日)
Niessing Tokyo
東京都港区南青山5-9-10 サンク青山1F 
http://niessing.jp
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アートとプロダクトの不穏な関係

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「"ART & PRODUCT" - アートとプロダクトの不穏な関係」と題したグループ展が清澄にある AI KOWADA GALLERYにて開催中だ。

出展作家は、磯谷博史氏、大田秀明氏、木住野彰悟氏、佐藤好彦氏、鈴木康広氏、土屋貴哉氏、冨井大裕氏、ホンマタカシ氏、三田村光土里氏、森田浩彰氏の10名のアーティスト。

展示作品はプロダクトをテーマにした絵画や写真、映像などの平面作品にくわえ、実際の工業製品をモチーフにした立体的なレディメイド作品など十数点。たとえば、以前、目黒のギャラリー青山|目黒で出会った森田浩彰氏の、ナチュラルミネラルウォーターのグローバル企業であるエビアンとボルビックの500mlペットボトルを使った関係性をテーマにした「From Evian to Volvic」(森田氏のペットボトルからペットボトルへ中の水を移す実体験に基づく作品)や、写真家のホンマタカシ氏による消費社会のひとつの象徴でもあるマクドナルドのトレードマークを、郊外や現代社会の象徴として扱った写真シリーズ『M』、冨井大裕氏は「ハンマー」と題し、ハンマーを並べた彫刻的でアブストラクトな作品を出展している。

どの作品もプロダクトとしての物自体の社会的なあり方に着目しながら、プロダクトがもつ用途という具体的なあり方を比喩的にあつかうことで、その意味をそこに残しながら、プロダクトから抽象概念だけを抽出しているようにみえる。

たとえば、佐藤好彦氏の「Type of Peace」は、PCのキーボードからキーだけを抜き出し、それをある意味をもった文字になるように配列することで、記号の刻印されたキーの本来の使われかたとはさほど遠くはなれることなく、アート作品たりえる作品を作っている。それはキーはキーボードの上にただ配列されているだけでは、たんに記号にすぎないが、それを指し示す機能が明確である場合、ある意味や文字として浮かび上がってくることを、物そのものを再構築しあらためて示した作品といえるだろう。

本展の意義はアートとプロダクトの不穏な関係というコンセプト自体にあると思うが、ここに展示された作品から、その意味を深く読み解いていく作業は容易なことではない。デュシャン、あるいはレディメイド、ウォーホールやリキテンスタインを例にだすまでもなく、これらの作品がわれわれが置かれた消費社会においてある批評性をもってたち現われていることは否定の余地もないだろう。

台座の上に置かれただけのボーリング球や、野球のボール、あるいはペットボトルが示すのは、もちろんこれらの工業製品を賛美するわけでも、それがある豊かな社会を物自体を選ぶことで謳歌しているわけでもない。もしここに選ぶことの価値を見いだせるとしたら、それは同時代的な優れた感性をもった芸術家たちによる時代を編集し、「手術台の上におけるミシンとこうもり傘の出会い」のように、異質なもの同士を組み合わせ、硬直した価値をゆさぶる卓越したセンスのたまものだろう。それは本展の隠されたテーマでもある広告もまたしかり、である。

「ART & PRODUCT」~2011年12月22日(Thu) AI KOWADA GALLERY
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美術と見世物
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浅草寺境内にて現代美術家の小沢剛さんと東京芸大の美術学部の卒業生をふくむ学生たちによる「油絵茶屋再現」がはじまった。
明治7年、西暦にすれば1874年、見世物と茶屋の形式を借りて、客に油絵をみせる油絵茶屋なるものが登場した。浅草や銀座などの盛り場に集まる大衆目当てに、油絵を肴に、当時まだ珍しかったコーヒーをのませたという。今回の再現油絵茶屋でも、小屋の前で無料のお茶がふるまわれている。
実際に油絵茶屋が当場したのは、江戸から明治に時代が変わり、急激な近代化とともに西洋化がはじまり、絵画や彫刻において近代美術の受容がはじまったころ。
ヨーロッパやロシアの美術が国力の誇示として美術表現があったように、日本も近代の受容において、日本の伝統を表現する必要があった、そんな時代に浅草にあったという、油絵茶屋。

そして今回浅草寺境内に再現された「油絵茶屋再現」ですが、これがすごいんです。仮設的な存在である茶屋ということで一見チープなつくりなのですが、小屋のなかに展示されている一点一点の油絵のクオリティが非常に高い。
民衆を相手にした見世物の形態をしていたため、その資料はほとんど残っていない。今回再現された油絵茶屋は唯一残っている第一回目の引札(チラシ)をもとに作成されているという。その第一回目は当時の西洋画家五姓田芳柳と義松親子が中心になり行われた。
時代は、美術を展示するための美術館もギャラリーもない時代。美術という言葉自体もその前年に生まれたという。展示は見世物らしく、たんに画布に描かれた絵画を展示したのはなく、その絵が本物らしく見えるようにさまざまな工夫がこらされていたことが、当時の新聞などの記述に残されている。
計3回浅草を舞台に行われたという油絵茶屋だが、明治9年に行われた油絵茶屋には司馬江漢、かの有名な国宝級の絵画「乾魚」(作者・高橋由一)も、この油絵茶屋に展示されていたらしい、ということまでわかっている。

油絵茶屋において、それまで見世物にはつきものであった、観客を高揚させるものの中心でもあった、講釈師による口上は廃止され、作品を静かに鑑賞するという現代の美術鑑賞に近いかたちが生まれた。だからこそ、油絵茶屋は見世物と美術のあいだ、その登場はまた、絵画の見世物からの明確な脱却への志向でもあったともいえるのかもしれない。
それと浮世絵がそうであったように、この当時の絵画はいまの週刊誌やゴシップ誌のような役割を担っていたとも思われる。
再現された油絵茶屋にも肌をチラリとさらした遊女の姿と、それを下から覗きみる若旦那の姿や、大石内蔵助の討ち入りの図、暴れ牛を取り押さえる猛者の姿などが描かれたものがある。これからも分かるように見世物小屋は当時の画家にとっとも、絵画をみせる手段としてまっとうなものであったのだ。

当時の油絵の技法をつかって再現されたという12点の絵画のなかには、見世物風情をあおる、景色の描かれた幕を背景に立つ、人がたにくりぬかれたジオラマ風の油絵もある。いまみるとチープ片付けるわけにはいかない表現もあって興味はつきない。なにより今回浅草に「美術」が戻ってきたことは大きな事件だろう。無料のお茶目当てに興味本位で笑いながら油絵をみている来場者に、ついつい僕は自然と明治初期の庶民の姿を重ねてしまった。この油絵茶屋については東京大学の木下直之氏の「美術という見世物」に詳しい。小屋で配られているざらついた紙にべったりとしたインクで再現された引札も必見です。


油絵茶屋再現」(11月15日まで。午前9時〜午後4時30分。入場無料)



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美術としての写真と映像
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昨日は雨のなか新宿へ「1970年代へ写真と美術の転換期」展を観にYumiko Chiba Associates viewing room shinjikuへ。1970年±5年くらいに発表された4人の現代美術家による写真作品を展示。植松奎二氏、高松次郎氏、眞板雅文氏、若江漢字氏の4名。それぞれ彫刻、ペインティング、前衛芸術を出自にもつ現代美術家であるが、作品表現のために写真や映像をつかった。
この時期、高度経済成長とともに写真や8ミリといった記録メディアが一般にも普及し、それとともに現代美術におけるパフォーマンスや無形のアートなどを記録する手段として、それらが使用されるようになった。

それぞれ現代からみても興味深い作品ばかりであったが、特に印象に残ったのが、以前から好きだった植松奎二氏の作品と、高松次郎氏の写真を写真におさめた作品「写真の写真」。家族の記録写真を日常の一コマにすえ、印画紙に焼き付けられた日常写真を被写体とした写真作品は、あとにも先にも高松氏が残した最初で最後の写真作品とのこと。
共通していそうなのは、複雑多様化していくメディアに対して、それを批判的にとらえる試みとして、写真や映像が用いられたこと。高松氏のスナップ写真を撮った作品は、被写体となる写真を折ったり、歪めたり、光に反射させていたりで、現代でも充分にリアリティのある表現だが、とうの高松氏本人が、後にも先にも、「写真の写真」以降、写真作品を発表していないことが、すべてを写すと思われている写真への批判的なそのスタンスを明確に表明しているようにみえた。

当時、写真よさようなら、来るべき言葉のために、というような写真というメディアの精鋭化とともに、表現としては一般化し陳腐化が進行するなかで、アーティストにとって写真はありのままの現実を自動的に写し出すものから、批判的に乗り越えるものに変わった。それは真摯たる写真家にとっても共通認識であっただろう。

これらの美術家たちは、'60年代のアート運動である、フルクサスやハプニング、ポップアート、ネオ・ダダなどを通過し、EXPO'70におけるお祭り騒ぎを経て、頭でっかちな既存の美術乗り越えのための批判的な芸術運動を展開した。その根拠とするものがなんだったのかはわからないのだが、そこには前時代的な抽象的表現を極めるまえに、もっと直接的な「身体的表現」があったことは疑いようのない事実であるだろう。同時期イタリアでは'60年代のラディカーレ運動を経て、73年には反デザインの運動「グローバルトゥールズ」がデザイナーや建築家らによって組織され、日常の道具や当のデザイナー本人の身体をもちいてデザインなき身体的な実験を行っていた。
'70年代当時の植松奎二氏らの身体と道具を使った、一見滑稽なパフォーマンスともとれるアート表現は同時代の問題意識とし共振していた。

それと、今回のエキシビションをみて、あらためてこの時代の美術表現の中心に写真や映像がもちいられていたことがうかがえ興味深かった。写真に対する考え方や捉え方は時代とともに変化する。それは先立つ'50〜'60年代のそれともすこし違っていたことも興味深い。ポップアートは既存の写真をイメージとして使用したが、70年代前後の芸術家は写真を自ら撮影したことなど。今回のエキシビションは、ちょうど現代美術家と写真や映像との関係が気になっていたので、それを考えるのに良いきっかけになった。ギャラリーの資料室でみた古いカタログに掲載されていた眞板雅文氏の海の写真と等身大写真も素晴らしかった。実物をみてみたい。

「1970年代へ写真と美術の転換期」展パート1は、昨日で終了、明日からはパート2が行われる。このエキシビションでフューチャーされるアーティストは植松奎二氏。今から楽しみである。

写真は本エキシビションのDM。潔くてかっこいいグラフィックス。右のKim Beomさんの本は韓国のSulangさんにいただいたもの。韓国の現代美術家です。


「1970年代へ写真と美術の転換期」
Part 2 : Solo Exhibition    植松奎二 
2011年10月7日〜10月29日
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反復と反響

京都でCenter for COSMIC WONDER がキュレーションを手がけたエキシビションをみた。場所は京都駅からみて北の方、京都精華大学内にあるギャラリー、ギャラリーフロール。

「ORGANIC RELATIONSHIPS〜反復  反響する次世代へ」は、7組の作家によるCOSMIC WONDERのアートプロジェクトだ。

出展作は、 Jue and Anoaは現代美術家の前田征紀とサウンドアーティスト田中真由美のユニットで、宙に吊るされた二つのスピーカーによるサウンドインスタレーションを展示。フィールドワークにより蒐集された環境音とアコースティック楽器による演奏がサラウンドシステムにより空間に反響する。木村友紀は摩天楼の風景のなかにくりぬかれた人の眼による、まばたきとフラッシュがループする映像作品を展示、前田征紀の「Light-Sound System」では、天井から吊るされた片面シルバーで着色された木片で空間を空疎で満たした。Jay Chunng&Taeki Maedaはハンス・ウルリッヒ・オブリストの1000ページにおよぶインタヴュー集によるアーティストブックを、写真家のAnders Edstromのインクをこぼした様を写し取った写真作品は、本来「染み」になるこぼれ出したインクを液体状に、モノ自体である物質のまま、瞬間を記録する装置である写真をつかって固着させることに成功している。Stephen Sprottはアンビエントな映像作品を、それと、ニューヨークを拠点に活動するアーティスト、ジェイ・パーカー・ヴァレンタインの作品をみることができる。

これらはすべてCenter for COSMIC WONDERのフィルターを通さなくても作品として充分な力をもつことができるが、Center for COSMIC WONDERのフィルターを通すことでより強固な力をもつことになる。

余談だが、京都精華大学ではこの10月には本展の主役でもあるCOSMIC WONDERの前田征紀や、芸術家・建築家・批評家らを招き、空間に関する連続レクチャーシリーズ「可能性の空間」を開催し、身体、環境、建築などを主題に空間を巡る議論を展開するそうだ。


ORGANIC RELATIONSHIPS〜反復 反響する次世代へ」の会期は、2011年10月15日まで。
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ART FAIR TOKYO 2011プレヴュー
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今年の3月に予定されていたが、東日本大震災の影響で延期となっていたアートフェア東京2011が明日から開催。
国内外のギャラリー130以上が参加する国内最大規模のアートフェアとあって、日本画、工芸品、現代アートと幅広いジャンルの国内外のアートが集まっており、それなりに見応えがあった。

個人的なトピックスは、今回アートフェア初参戦となる名古屋のギャラリーNのお二人に会うことだ。ギャラリーNは昨年3月のギャラリーNでの展示も記憶に新しい、金沢の工芸作家伊能一三さんの「へいわののりもの」の新作を発表。コケティッシュな動物たちを、よりよい未来と世界の平和を運んでくる乗り物にみたて本作品は、ともすると浮世離れしてしまいがちなアートがもつ世界観から、震災以後の僕たちの心を穏やかなかちで日常につなぎとめる、そんな存在感をにじみださせていた。

もうひとつのアートフェアに対する個人的な興味は、普段のギャラリースペースより、広いとはいえないアートフェアの展示空間で、おのおののギャラリーが、このタイミングでいかなる所属作家さ作品をフューチャーしてくるかということだ。
そこにこのアートフェアへの意気込みや、ギャラリーが現在、どんなスタンスで国内の現代アートの市場に関わりその"価値"みているかが、なんとなくだが見えてくるから面白い。
その点でいえば、ギャラリーNのお隣ブースでの展示となった、新進ギャラリーとして注目を集めるNANZUKA UNDERGROUNDの、ボール紙の"仏像"一本で空間を埋め尽くしたせめせめの展示も見応えがあった。


アートフェア東京は明日、7月29日から7月31日までの3日間。
東京国際フォーラム 展示ホール&ロビーギャラリーにて開催。
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狂気と狂喜と
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ラ・ガルリ・デ・ナカムラに山口智子さんの久しぶりの個展「一緒にしたり、別々にしたり」を観に行ったのは6月も終わりのころ。

ラ・ガルリ・デ・ナカムラの展示はいつも素晴らしいのですが、今回もゆったりとした空間で、のびのびとした展示をたっぷりと楽しませていただきました。どうもありがとうございます。

山口智子さんのドローイングは、いっけん、いい意味でやさぐれた感じの女性像が魅力的な作品の特徴になっている。ギャラリーの床に整然と並べられたオブジェクト、キャビネットに無造作に掛けられたテキスタイル。そのすべてが等価値な価値をもち、ある種の過程を表出させている。ちょうど3年ほど前に、同じラ・ガルリ・デ・ナカムラで行なわれた「kikyo」と題された山口さんの個展でも、今回どうよう、絵画作品だけでなく、さまざまなアイデアにみちたオブジェクトたちが展示され、印象に残った。

「ききょうとは、帰郷のことであり文字を組み換えると、「きょうき」になる。
狂気とは狂喜や凶器に結びつき、ある種の過剰を意味しているようにみえる。
下着姿の女の子はうつろな目をしており、めざめながらまさしくうつつな夢を見ているようにみえる。ときにペットが描かれることもあるが、今回の個展では白い下着姿の女の子のモチーフが目立つ。白い下着は、山口さんによればこれ以上ない防御のあかしであり、ここに描かれた女の子たちは、白い下着しか身につけていないがゆえにそのあらわな姿にもかかわらず外界から守られているという。」http://form-design.jugem.jp/?eid=296

ちょうど3年前に書いたテキストだが、山口さんの作品はいい意味でまったく変わっていない。狂気と狂喜は紙一重で、作品に描かれた女の子のなかで、恍惚とともに一体となっている。そのさまにその作品をみる者は魅了され、意味以上の意味を盲目にさがすのだろう。



山口智子「一緒にしたり、別々にしたり」
ラ・ガルリ・デ・ナカムラ(会期終了)

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コンテンポラリーフォトグラフィとは何か? 三
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三. アノニマスな郊外、均質化した風景。言葉の共生の問題をあつかう僕ら


先の篠山氏の疑問に対しホンマ氏は、コンセプトがあってチャームがある。それがコンテンポラリーであったが、それも今では物足りなくなっている。コンテンポラリー、そしてアートとしての写真である以上、頭を使いましょう、というのが最低限であり、その上でのチャームであり、コンセプトであるときりかえした。

「ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー」に展示されたすべての作品に貫かれているのは、既成の写真というものがもつ意味と、その言葉の意味を問い直すこと。
写真を英語でいえば、フォトグラフだが、それを日本語に直訳すれば、光の画となり、「光画」と呼ぶ。いつのころからか日本では、フォトグラフのことを写真と呼ぶようになり、その言葉の意味通りに誰もが写真は「真実を写す」ものであると理解してきた。たがらこそわれわれは、大切な記念日を記録し、大切な記憶を忘れないためにその情景を写真に撮り、それを記憶のための外部装置として使ってきた。
もちろん写真にはそのような機能的な側面もあるが、その機能ばかりが既成事実として重要視され、やがて写真に写ったものを真実だと誰もが疑わなくなってしまった。

マクドナルドや郊外型の巨大ショッピングモールなど、名前をあとから付けられたアノニマスな郊外の風景が均質化した風景のようにのっぺりと広がる「M」の周囲の壁面に展示されたのは、アメリカのアーティスト、マイク・ミルズ氏との共同作品「Together」である。『マクドナルド」をテーマにした「M」と表裏に展示されたTogetherは、
タイトルからもわかるようにミルズ氏との共同作品であることを意味すると同時に、現代社会がある未知のひとつの状況と隣り合わせであることを示唆してみせる。

Togetherの作品を見てみると、どれをとってもそこに写真がもつ決定的瞬間であったり、私的な物語であったりといったドラマチックな要素はひとつとして見当たらない。
それはこれまでホンマタカシ氏が郊外を撮影してきたどの写真と比べてみても、本来写真がとるべきその写真に据える対象物の不在という意味においては、際立っており、それは異常ともいえる。
ただそこに写るのは、ロサンゼルスのフリーウェイとまばらに立つ広告板、そして草木もまばらな砂丘と郊外の住宅街の風景が広がるばかりだ。だが写真に添えられたミルズ氏のテキストを読むと、この不思議な写真が、ある明確な意図をもって撮影されていることが分かってくる。その意図とは、郊外とも砂漠ともつかないこの場所におけるマウンテンライオンなどの野生動物の生態に基づいた、普段は目にすることのない彼らのテリトリーを調査し、それを淡々と写真で示すことである。

これらの写真には、写真に収められたエリアと、そこに生息する野生動物の行動調査のために、捕獲され、識別タグとGPS付きの首輪が取り付けられ野に放たれた野生動物たちのテリトリーと生態が写し出されているのだ。マイク・ミルズ氏によるテキストが添えられたこれらの作品には、あたかも地質学上の研究資料をみるような不思議なおもむきがある。
よくみるとそれらの写真には砂漠のなかのフリーウェイを人々が横断するために作られたと思わしきトンネルや、住宅街にほど近い裏山の風景、乾いた山肌に貼り付くように造成された家々が広がっているのがみえる。
われわれにとって人間の暮らしのこんなにも近い場所に、野生動物たちが息づいていることは驚きに違いない。それはまた、時に人間にとって危険とされる彼ら野生動物のテリトリーを侵食して生活圏を拡大し続ける、人間の生態をも二重に写し出している。それらを見る者の主観を排除し、科学実験のように実証的に検証する視点が、ホンマ氏の写真からは感じられる。また開発のための郊外が、野生動物保護団体の手により、あらたに自然の風景へと逆開発される、そんな風景を写し出しているのだ。ホンマ氏とミルズ氏による「Together」は、文明の発展によってこれまでとは異なる方法での共存を余儀なくされた野生動物と人間との、共生の問題を扱っているのだ。

******
continue
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kokodewanai dokokahe dewanaku kokoigaininai kokohe
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コンテンポラリーフォトグラフィとは何か? 二.


いくつかの議論のあと、それではと篠山氏は(雑誌ではなく)ギャラリーで展示されたものがコンテンポラリー?と疑問を投げかけた。その意味で、おもにギャラリーで展示されるホンマ氏の写真はその成立からして現代アート的スタンスをもっている。それは近年の篠山氏としても同じことである(つい先ごろも篠山氏の過去作品が清澄のhiromiyoshiiギャラリーに展示された)。そして、そのコンテンポラリーフォトグラフィの写真がもつというコンセプトが何かが分からないと写真をみていてもぜんぜん面白くない、写真が難解であると面白くないと感覚的に指摘した。

ホンマ氏の二つ目の展示室となる、天井高のある空間に床面すれすれの低い位置に展示された作品は、2010年秋に発表され、今回展示された作品のなかでは最も新しい作品となる「M」の連作シリーズ。12メートルの天井高のある空間で、床に置かれた作品を覗き込むようにみる展示となっている。「M」というアルファベットひと文字から連想さるように、この作品のモチーフとなっているのは、誰もが知っているグローバルな企業であるファストフード店、マクドナルドである。
郊外のマクドナルドやコンビニエンスストアのある風景は、ホンマタカシ氏の写真の世界のなかでは、繰り返し取り上げられてきたモチーフだ。この作品は通常の印画紙を用いたプリントではなく、写真作品を元に、ポスターやTシャツの印刷などに用いられるシルクスクリーンで制作されているのが特徴的だ。
それだからか、通常の写真作品とは異なり、シルクスクリーン独特の大きめな網点の集合による作品は、写真というよりも絵画に近い印象がある。近くでみると網点が粗いせいかディテールばかりに目がいくが、引いて見ることで正確な像に補正される。鑑賞者の作品を観る視点は、背丈の違いや立ったりかがんだりと姿勢によってさまざまなので、作品の見えは多様に変化する。それは例えるなら、ひと昔前のブラウン管のTVを近くでみたり、離れてみたりするそんな行為に似ている。
またそれらの作品は、オリジナルとオリジナルサイズをトリミングしたり、色調を大胆に変えたりして複製されたものが等価に並列で展示される。それはあたかもスマートフォンのフラットな物質感をともなわないマルチタッチスクリーン上で、つまんだり拡げたりしながら像を縮小拡大し写真家によって複製されていくようだ。それがシルクスクリーン作品特有の一点一点手作業によるクラフト感ある「複製」の技法によって、デジタルによる大量コピーとは異なるマルチプルなおもむきを生み出すことになり、ホンマ氏独自の作品たり得ている。

ホンマ氏にとっての郊外は、木村伊兵衛賞受賞の「TOKYO SUBURBIA 東京郊外」(1998年)における高度経済成長期を経て拡大していく都市の周縁につぎつぎと建設される、清潔で健康的な集合住宅の写真を見ての推測に過ぎないが、そこにある「同時代性」に対する批評ではなく、同じ規格をもつ無数の窓が連続することに象徴されるその「均質」さの中に浮かび上がってくる差異を明確にすることでもない。そこに写し出される郊外の風景は、批評家・明治大学准教授の倉石信乃氏が10+1誌でかつて指摘したように「格別の批評意識を介在させる必要なく生きられる、ニュートラルな日常空間に他ならない」のである。



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コンテンポラリーフォトグラフィとは何か?
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一. ホンマタカシ氏のコンテポラリーフォトグラフィをめぐる考察

今夜3331で聴いた「TOKYO FRONTLINE amana photo collection project Awarding Review and Talk」の審査委員である写真家のホンマタカシ氏と篠山紀信氏のコンテンポラリーフォトグラフィーをめぐる小さな議論が興味深かったので、現在金沢21世紀美術館で開催中の「ホンマタカシ:ニュードキュメンタリー」展をみた感想を含めメモしたい。
その議論とは本日まで3331で開催されていた「TOKYO FRONTLINE」主催によるフォトアワード公開審査におけるもの。公開審査には途中からの聴講だったのだが、篠山氏とホンマ氏によるコンテンポラリーフォトグラフィをめぐる議論はすべての応募者のなかから選考されたという十数名の写真家の作品のプレゼンテーションののち、篠山氏がホンマ氏に対して、まずコンテンポラリー写真って何か言ってよ、という言葉から始まったように記憶している(ちなみにこの賞は「コンテンポラリーアートとしての写真」新しいアワードという副題がある)。
このストレートフォトとコンテンポラリーアートとして写真を巡る議論は、今日始めて知ったのだが、かつて篠山氏がストレートフォトグラフィの賞といわれている木村伊兵衛賞の選考に際し、コンセプチュアルな視点をもった芸術写真家と知られる森村泰昌氏を賞に推しながら、反論に合い断念せざるをえなかった件にさかのぼるという。今夜の議論においてもホンマ氏が当の篠山氏に対して、10数年前のその事件に言及したことから加熱したようにみえた。ちなみホンマ氏は、近著である自身初の写真批評書「よい子のための写真教室 たのしい写真」において、コンテンポラリーフォトグラフィーとして自身の写真家としてのスタンスを明確に示している。コンテンポラリーフォトグラフィーをめぐる議論は、現在の写真家としてのホンマ氏のスタンスを示す重要な議論のように思われる。

一方、金沢21世紀美術館で開催中の「ホンマタカシ ニュードキュメンタリー」は、写真家として'90年代より雑誌や広告などの分野で幅広く活動を続けるホンマタカシ氏初の美術館での大規模な個展。本展は現代美術家として世界中から注目を集めるホンマタカシ氏の大規模展とあって国内外での注目度も高い。

先の篠山氏の質問を踏まえホンマ氏は今夜の選考に際し、ある写真家の作品に対して、すべてが等価値に撮られていて、コンテンポラリーであると説明したうえで、その「等価」を生み出す背景にある写真家の「コンセプト」そのものにふれ、日本の写真界では「コンセプト」がチラリとみえただけで、「写真」ではないと決められ、理解されてしまうと現在の日本の写真界のメインストリームに対する自身の感想を述べた。

「ホンマタカシ ニュードキュメンタリー」では、4つの展示室とひとつの仮設ブースで新旧作品を新たにプリントしなおしてその世界観をあらたに再構築した。最初の部屋に展示されたのは、北海道・知床の雪山にハンターたちとともに入って撮影したフィールドワークによる作品シリーズ「Trails」。だが、そこは単なる大自然を写しとったネイチャーフォトではなく作品には、雪山の斜面には倒木や、動物たちの足跡といった痕跡、何やら意味深な赤い血のようなものが飛び散っているのがみえる。タイトルからしてそうだが、そこに写し出されているものが何なのか。その手がかりとなるような説明的なものはどこにも見当たらない。ただ、純粋に美しい雪山の風景と何ものかの痕跡を前に鑑賞者は、さまざま想像を巡らすことができる。
この作品についてホンマ氏は「雪の上に赤いものがあるだけで純粋に美しいと思った」と語る。普段みることのない自然の奥深くで繰り広げられる光景を前に、鑑賞者は「まがまがしい」ものを感じとりながらも、純粋に綺麗だと思える作品になっているのが印象的だ。
同じ部屋には「Trails」と同時に発表されたホンマ氏自らの筆となるドローイング作品も展示される。こちらは荒々しい絵筆のタッチが残るアブストラクトな作品。そこにも写真作品と同様、雪や木の枝、血痕と思わしきモチーフが描かれているが、ドローイングになるといっそう意味や意図がそぎ落とされ、そのディテールだけが明確にみえてくるようになるから不思議だ。
「Trails」ひとつをみてもホンマ氏は日本語で写真がもつ「真を写す」という意味の問い直しを、コンセプチュアルな姿勢でおこなっている。



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