どんなに中国製品に問題があっても、決してそれはこの世からなくなることはない。もの作りにおいて優れたシステムとそれに対するバイタリティーをもった国力は、今やきっと中国を中心としたアジアの、それもかなりの貧しい生活を強いられた人々の手の中にあるのだろう。
それはそれが自分の生活のために生み出される切実な道具や食物であるより、それがマネーを生み出す道具である以上、そこにはいずれのモラルよりも効率が、経済が優先することはもはや自明のことだ。
かって私たちの国、日本も同じ道を通り、同じことをして、同じことをいわれてきた。
'60年代に生まれた公害やオイル問題、そして自然破壊の問題は、それらかって自明に守ってきたはずの私たちの祖先がもっていた社会的通念や、モラルをないがしろにしてきた経済至上主義の時代に生まれてきた。
その上に積み重ねられてきた発展。
中国製品にたとえ重大な欠点があっても、それはそれを求めている消費者がいる限り決してなくなることはないだろう。
求めるとは、受動的であれ能動的であれ、経済の論理の前ではあまり関係がない。
今、中国製品がこの日本からなくなったとしたら、多くの企業が倒産するかもしれない。そうしたら私たちの食卓から食べ物の、おそらく5割がたのものが消えてなくるだろう。
人々は健康のために2000円のキャベツを喜んで買うだろうか?家庭を守る妻は、そして母は。
暮らすため、生活のための道具も少なからず消えてなくなるだろう。
それらとうまく共存していかなけらばならない。
それは社会のシステムがあるものを必要としているのなら、それがたとえ悪であったとしても、それがなくなることがないのと一緒だ。
日本に訪れる中国の人やその周辺諸国の人たちは、高いお金を出してまで決して自国の製品を買おうとはしない。その高い安いは外貨の問題であって、それが流通する国の文化の問題ではない。
かって日本人にとっても海外旅行が珍しく、高嶺の花であった時代があった。その時代、生活費のなかから毎月いくらかの積み立て金をしつつ、慎ましやかに海外旅行の資金を捻出していた時代には、夢にまでみて訪れたヨーロッパの国々やハワイなどで日本製の土産ものをみることがしばしばあった。その頃には日本人は節約を重ね、せっかく苦労して海外に来てまで日本製の土産ものをしか買うことが出来ない現実に、大きな失望を抱いたはずだ。
しかし思い返せば、その当時日本は世界にとって最大のもの作りの国であり、その頃までかろうじて保持していたもの作りの豊かな文化は、きっと世界に誇る素晴らしいこの国の文化であったのだろう。
今や中国や韓国、そして台湾からの旅行者は同じような失望感をしばしば味わっている。
きっと彼らも今、かっての私たちと同じような失望をあじわいながら、自国の優れた技術力やもの作りの文化に気づくことなく、一度失ってしまったら再び手にするには困難な、そんな大切なものを失いつつある過程にあるのだろう。