扉の横に人が立っている写真を見ているとき、人は何を見ているのか?被写体を見ているのか、その扉を見ているのか、扉のドアノブを見ているか、扉の色を見ているのか、その扉の向こう側にあるものを見ているのか、あるいはその写真が印刷されている紙を見ているのか。
写真集を見るということは、さらにそこにいくつかの別の見るという行為が積層する。ページをめくることで知覚や認識の中で前見た写真とその次に見た写真が連続している。時に「一枚飛ばし」で写真を見る誤読が起きても、写真単体には大きな変化はない。続いて写真をめくることで、また次の写真が現れてくることには、作品集全体から見れば、大きな差異は生まれない。ただひとつ確実なのは、作品集で写真を見ることには、手の動きに写真というものがもつ時間が規定されるこことと、その写真自体と、その写真がもつ存在が混交すること、そして紙をめくる手が次のページに続く作品を予感させることであろう。
本テキストの主題である本は写真家トヤマタクロウの新刊『DEVENIR』である。
この本は「CAMERA OBSCURA」、「ERROR」、「PORTRAIT」、「OBJECT」、「[[ ]]」、「2020」、「MY FUTURE」という、7つの章で構成されている。それはあたかも建築が敷地との関係の上に、敷地、基礎、柱、壁、屋根、そしてある種の破片や断面などで構成されているのをなぞるかのようである。6章目の「2020」にはその紙をめくるという行為と写真を見るという行為が連続しているようなグラフィック的ともいえるレイアウトになっている。
紙をめくる行為が次の作品に繋がり、重なりあつまた写真と写真との狭間に、実際の作品にはない新たな別のイメージが立ち上がる。一枚の写真を仔細に見ることもできるし、一本のロールフィルムに刻まれた一連の写真がそうであるように、写真家が切り取り連続した時間の連なりとして写真を見ることもできる。
そのように見るということとページをめくるという行為が渾然一体となっている。これは写真を撮ったトヤマとこの作品集をデザインした米山菜津子による鑑賞者がこれを見るという行為に対する、煽動でありひとつの仕掛けである。
無作為に、あるいは恣意的に並び順を選ばれた写真から、一見どんな関連性も見出せない。2020という章立てから推測されるようにそこにはその年に撮影されたのだろうということは推測できる。だが、この数字が年号ではなく、単なる数字の連続だとしたら?2021年のこの夏、東京の街には場違いともいえる2020という数字が氾濫していたことは記憶に新しい。その風景は意図的に捻じ曲げられた強い意志によって生み出されたものであったのだが、私たちはそれを無思慮に受け入れていたことを知っている。そしてトヤマの2020もそれが本当に2020年の風景なのか、これを見る者には知る由もない。だが確かなのはこの97ページに及ぶ日常のsnapは、相反するふたつの感覚、ある種の暴力的さとなにげなさを纏い、ページとページの連なりの間合いを疾走する。
作品集という全体と写真というディテールは、ここではそのどちらもの概念に揺さぶりをかけられ、その実どちらの立ち位置をもさらに強固なものにしている。
単体では決して情報量の多くはないトヤマの写真が、このようにひとつのページに積層されることで混沌さを帯びるが、ページの上下の余白により、過剰ともいえる情報量が破綻のない絶妙なバランスでコントロールされている。
そして、読者はこの写真の氾濫にもし疲れたら、ERRORといった別刷りの冊子や、[[ ]] 、CAMERA OBSCURAといった章に自らの自由意志で戻ればいい。
トヤマの『DEVENIR』は断片的とも捉えられかねないもので構成されていながら、決して一つひとつの密度や、構成に破綻を及ぼすことはない。むしろこの大きな総和によってしかなしえない写真の集合で、写真の歴史を原初から辿ったり、振り返ったりあるいはその先の未来を見据えながら、写真を遠くにスローイングしている。しかもそれをあくまでなにげない静かな手さばきで。