FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

デザインを語ることの難しさを知る


前回こちらでお知らせした岡田栄造さんによるトークショーが先々週末になってしまったが開催され、そちらに御邪魔してきた。僕のライフワークのひとつでもあるデザインジャーナリズムがお題のトークイベントとあって、このブログでも前々から煽ってきていたので個人的には相当の期待があったイベントだ。また日程が僕の地元の祭りである三社祭と重なったこともあり、まるで自分が当の出演者であるかのように数日前から気持ち的に落ち着きがなくなった。
当日の会場に着くと僕が想像していた以上の来場者があり、今回の議題とトークをされる皆さんへの注目の高さを感じた。イベントの会場は勝どきにある「shop btf」というがギャラリーとデザインショップを兼ねたスペース。勝どきという、晴海ふ頭から程近いところにある、高層ビル以外にはあまり何もないエリアの裏道にひっそりと建つ倉庫の一角にその空間はある。
今回のトークショーは昨今出版業界での雑誌の休刊廃刊が相次ぐ中、僕らの生業であるデザイン雑誌や書籍におけるデザインジャーナリズムがお題ということもあり、会場には同じ問題意識をもつデザイン・建築関係を中心に、編集や執筆を仕事にしている仲間が数多く集まった。そこで僕のブログでのレポートは、界隈のブログで既にそれぞれの立場からデザインジャーナリズムとは何か?というような議論が白熱していたので、当日メモ&レコ録した内容をもとに、私情をあまりはさまずに御二人が語った言葉を拾いながらの短めのレヴューにしたいと思う。

タイトル、岡田栄造 x 藤崎圭一郎「デザインジャーナリズムについて」

二部構成で準備された今回のトークショーの第一部は、今日のホスト役である毎日更新のデザインニュースサイトdezain.netを主宰するデザインディレクターでもある岡田栄造さんと、編集者でデザインジャーナリストである僕らの先輩、藤崎圭一郎さん。
トークは普段引き出し役が多いという藤崎さんからの提案もあり、お互いに質問することからスタートした。
まずは藤崎さんが岡田さんがdezain.net を始めた理由は?と質問。dezain.netを始めた10年前はネットに書かれていることのほとんどは便所の落書き程度という評価で、それに対する疑問があったという岡田さん。それとただ新しい情報を伝えるだけのデザイン誌に対するフラストレーションがあったという。インター ネットの面白さを分析すると、更新されることがネットらしいということで毎日更新することにした。読者からのレスポンスを感じにくい紙メディア に比べ、サイトへのアクセス数の上下によりダイレクトに反応が分かるネットにはゲーム感覚の面白みがあると感じたという。ちなみに dezain.netは現在月に2万5千程のアクセスがあるとのこと。人に見られてる感じは止めたら負けという意地にも似た感情につながり、それが10年間たった一人で続けていく原動力になってきた。
それに比べ、雑誌で書いていても読まれている感じがしないという。雑誌でいくら書いていてもレスポンスがまったくない。書いていることに対して反応が知りたいといつも思っているという。
藤崎さんもウェブと比較して、雑誌は読者に届いているのかが分かりにくいと語る。ご自身もブログをされていて、リアルタイムの双方向のコミュニケーションがネットの面白さゆえ、読者の反応をタイムリーに知るためにもブログのコメント欄はリスクは高いが必要という考えをもっているという。
レスポンスの有る無し、そのよう意味だけをみても現代においてご自身の印象としては、紙メディアとネットは互いに相対的な存在になってしまった。ネットと雑誌での書くことの前提として、ブログ「ココカラハジマル」では、不特定多数の読者に向けて書いているのに対し、雑誌や書籍においては、そんな目に見えない読者にではなく、その書籍の担当編集者の為に書いているところがあると率直に語る。その為にいい記事を書く為にも編集者は優れた読み手でなければならないと考えている。その意味で昨今においては編集者からのレスポンスがないこともしばしばあり、雑誌に書きがいがない時があると、現在苦境にある紙メディアに対し苦言を呈する場面もみられた。
藤崎さんはデザイン誌AXISなどでデザインジャーナリストとして執筆をされているが、今回のトークでは何度も自分はジャーナリストではなく編集者であると自身の事を語っていたのが印象的だった。ジャーナリストとして文章を書くときも、読者というよりも編集者に対して書いているところがある。ゆえに書き手にはプロの編集者の存在が重要だと力説する。それは編集者としてのご自身への自負の現れでもあるのだろう。そんな編集者として自己の定義づけには、トークをデザインそのものの話題に何度も引き戻そうとする岡田さんの立ち位置とは裏腹に、編集について熱く語るその姿に、会場にいる誰もが編集者としての藤崎さんの信念を感じただろう。

もうデザイン雑誌なんていらない?

一方、お二方とも読者としてはデザイン誌はあまり買わないという。人の原稿はあまり読まない。そもそも文芸誌と異なり、雑誌を隅から隅まで読む、ということ自体前提としてないのではないか?雑誌には極端な話、いい写真といいタイトル、いいキャプションがあればいいというのは御二人に共通の意見のようである。
藤崎さんが雑誌について語った言葉で印象的だったのが、雑誌は期間が限定される、ある瞬発力のなかから生まれてくるイベントでいい、一生残る振りをしていながら次の号が出ると截断されてしまうという刹那な快楽が雑誌にはあると藤崎さんの言葉だ。
しかし一見自由に多様にみえるネットの中の言論の世界にも問題はある。本来ネットは強者弱者の区別なく多種多様な意見を並列に吸い上げるべきものであるのに、現代ではそのネットの世界にも実は様々な規制があることが分かってきて、居心地の悪さや、不自由なものになってきていることを実感すると藤崎さん。
本来自由であるはずのネット空間を含め、いい意味で自由な言論を展開する為にも、ネットだけではなく紙メディアというツールも健全でなければならない。ゆえに雑誌や新聞といった既存のメディアが権威を失い、ウェブ上にあるインディペンデントでスモールメディアによる”プチ権威”が巾を効かせている現状に対し、ジャーナリズムは無批判であってはならない。
僕はデザインの不自由さは、そもそもデザインが人間の暮らしのために便利なものを生むといっていながら、却って不自由で人間らしくない状況を作ってしまったことに原因があると思っている立場だ。それを藤崎さんはウェブの中にあるプチ権威を「過保護にされながら疎外されている」という言葉で表現していたように思う。

読んでもらうための雑誌のデザイン

雑誌にはその時代の空気がある。夢中になって昔読んだ雑誌を今手にしてみると、その頃に自分が感じた熱や気持ちの高鳴りの感じが蘇ってくるのは、思いや情熱は時代を越えて語り継がれていく物としても雑誌がもつネットにはない強みだろう。だがそれは一時のノリのようなもので、ノリは批評とは違うし区別されるべきだ、批評をするためにも第三者の目線で客観的にデザインを見ることが必要なのではないか、ゆえに客観性を持ちにくい新製品の批評というのは成り立ちにくい、批評をするには物の背景を精査するある程度の時間が必要である、と藤崎さん。
現状のデザイン誌はなぜ面白くないのか?デザイナーじゃないからデザインそのものの批評を読んでもしょうがない、読者に読んでもらう為にはなにが必要なのか?藤崎さんは自己批判をしながら模索する。
話は売れるためのデザイン雑誌とは本の形態やその大きさ、文字のサイズに及んだ。今あるデザイン雑誌は女性誌のように広告がばんばん入るわけでもないのにカバンに入らないし、電車で読めないくらいに不必要に大きいと思っていると藤崎さん。デザイン雑誌のあり方としては文字の大きさや本のサイズはデザイン雑誌を読者に読んで貰うという観点からはナガオカケンメイさんによる『dのありかたが道を示しているんじゃないか、藤崎さんの近著『デザインするなは字が大きくてお年寄りでも読めるところがいい、と思っているという。本の大きさ、文字の大きさやフォントなど、デザインがいま以上に本づくりに介入していくことで売れるようになるのではないか、そんな具体的な本の内容以外への言及もあった。

社会性をもってデザインを語ることのむずかしさ

御二人のお話を伺いながら、デザインが抱える問題について何となく考えてみると、デザインが社会にもっている認識と、社会からみたデザインの方向性におけるそもそもの社会性というものに対して見解の相違があるのではないかと僕は思った。デザインはいつもより良い社会の為にと言っていながら、デザインのためのデザインに終始し、あたかも新しいデザイン、風変わりなデザインをすることがデザインだと勘違いしていやしないか?それは批評家がデザインを語ることのうちに社会性はあるのか、という問いに結びついてくる。
より良い暮らしのためにといいながら、その19世紀的なデザインの理念が、真に生活者の暮らしに立脚したものではなく、デザインについて語ることがデザインそのものためであったり、企業のなんらかの利益に直に結びつくだけで、ユーザーのメリットを無視することのうえに成り立っているような、胡散臭いものになっていやしないか、それに当の自称ジャーナリストが気づくことが先決のような気がする。

世界の感じ方をデザインする

デザイナーへのインタビューにおける藤崎さんの「和文和訳」という方法がある。それは意外と多くのライターやジャーナリストたちが普通にやっていることだとは思うのだが、藤崎さんの和文和訳とは、インタビュアーである藤崎さんがインタビューイがインタビューの際に何を喋ったかではなく、何を言いたかったかを頭のなかで読み取りながら、読み手に伝わりやすいように、書き換え整えることである。
ここで岡田さんより編集に偏りがちな話題から、デザインジャーナリズムの話題へ舵がとられる。
今年のミラノサローネでの原研哉氏のディレクションによるSENSEWARE展の取材に行ったという藤崎さんは、センスウェア展にみられた、日本人の微妙な感性のようなものへの深い執着のようなものが、世界に伝わりだしているのかなと思ったという。
ミラノで感じたオーセンティックなモダンデザインといった20世紀の続きのような先が見えないデザインがあり、一方にアバンギャルドなデザインがある。
世界はアバンギャルドでは変わっていかない。もっと微細な感覚を大事にしながら、人が物に対する、世界に対する感じ方を変えていかなければいけないと藤崎さん。世界の感じ方が変われば世界が変わるんだ、感じ方をデザインする、そういう感覚をデザインすることを多くのデザイナーたちが共有していくことが出来ていけばデザインが変わっていくと。
それに対し岡田さんはそれはその世界の感じ方を微分しているみたいだと表現する。この世界に別の新たな世界を加えていくのではなく、その同じ世界に対する切り口を増やしていくこと、そういう意味で日本のデザインはこれからデザインに貢献できるのではないか?それはトヨタのようなメーカーが車で昔からやってきたことなんじゃないか。
物をデザインしていくのではなく、感じ方をデザインしていくということがこれから大事になっていく。それの一つのサンプルが今回のSENSEWARE展だと藤崎さん。
一つのものを見ても、見る人によって様々な感じ方がある、そういう世界観のようなものをデザインで実現出来たらそれがこれからの時代の豊かさなんじゃないかと岡田さん。
ネットはいろんな人の様々な意見を吸い上げて、多様な議論の場が出来て、って思われていたけど、現実には全然そうじゃないことの方が多い。
岡田さんも黒か白かみたいなグラデーションのない世界にネットがなってしまったのではないか?と危惧しているという。
発信者と受け手である読者が直接手を結ぶことが大切なのではないか。根本的にメディアや表現はネットだったりラジオであったり紙であったりデモであったり、ネットだけに集約されるべきではない、デザインという概念を使ってサスティナビリティであったりエコであったり、一つの方向に集約させようという流れが強すぎる、デザインとは本来的にはそういうものではない価値観みたいなものを出すものであって、違う生き方を提案するものとして、その生き方を変えるツールとしてのデザインを機能させなければならないと藤崎さんは未来のデザインの在り方に注釈をつけていく。

声に出して語ることの意義

界隈のブログで言われ、当のご本人も言われているように、事前に未来を見据えたデザインジャーナリズムを話をするといっていた藤崎さんのトークには、僕も当日会場では消化不良を感じていた一人だ。また責任のある立場の人の発言の影響力の強さも改めて実感し、それに思いを巡らす良い機会にもなった。例えばそれは、もしこの会場に来た人が今回の藤崎さんと岡田さんとのトークのなかにあった、デザイン雑誌は買わない、 というところを深読みもなく言葉どおりに真意にとってしまったとしたら?僕ら同業の者はその言葉を世のデザイン誌を手がける一流の編集者による、自戒の意味を込めての言葉=苦言と捉えることが出来る。しかし会場に来た一般のデザイン好きの人たちが、それをデザインの書籍を手がける現場の本音として聞いてしまったとしたら?僕は影響力を持つお二方の発言だけにそんな不安を覚えた。それでも今、僕らは自らそんな疑問とともに言葉を発していかなかればいけないのだろう。本当にデザイン雑誌は不必要か?デザインジャーナリズムは本当に無用なのかと。

僕はデザインもデザイン誌も大好きだから、ぜひ皆に手にして買ってもらえるような、そんな本作りのために素敵な文章を書きたいといつも思うし、いつでもPCを開くことで見ることはできても、いずれ消えてなくなってしまうかもしれないネット上のこのブログを、プリントアウトして保存してくれている熱心な読者がいることも知っている。だから書籍、ブログの区別なく僕は自分の書く文章には、つねに責任を感じている。
結局はどれだけ感動し、現実を前に落胆したかを伝える、個人的な勝手な言い分に近いものが批評の始まりであり、ジャーナリズムにはそんな個人的な思惑が世界を動かしてきたという側面があるんじゃないか。だからこそ僕らはそんな自らの個人的な思惑に言論の足下を掬われながら、何か世のため、誰かの為になることを語るべきだと思う。誰かに届くデザイン批評とは、デザインが世のため人のためといいながら、目に見えにくくしてしまったものを言葉にすることだと思うから。

ブログで書くことに関しては、藤崎さんもトークの中でおっしゃっていたように、ブログといえども実名で書く以上、書きながら自分で文章を編集しデザインしているのだと思う。そこには書く内容には自由なはずのネットの中でも、社会人としての僕なりのモラルに基づく規制がはたらいている。それはトークの会場などの公の場で話す言葉も一緒で、間違いなく一人の社会人としての社会の倫理に基づく規制が働くだろう。本来ならば個人のブログなのだからももっと自由に書けばいいのに、と自分に思ったりすることもあるが、自分の名前が出ている以上、良くも悪くも自らに規制を課してしまうこともあるのは事実だ。
次回もし藤崎さんにお会いする機会があれば、批評の自由、言論の自由についてご意見をお伺いしたいと思っている。

『休刊時代のメディア考』(朝日新聞の記事より)

奇しくも先週の朝日新聞夕刊の時事欄に『休刊時代のメディア考』という記事が掲載されていた。第一回目のノンフィクションライター野村進さんは、電車の中でイヤホーンをしながら携帯を一心不乱に打つ人びとを”透明な個室”に入ったままの個人といい、こういった透明な個室に新聞や雑誌が入る余地はないと書く。また今回のトークショーで藤崎さんが言っていたように、プロの書き手はプロの編集者がいなければ育たない、逆もまた真なりと続ける。第二回目のフリーライター永江朗さんは、雑誌が売れなくなったのは誰のせいなのか、と寄稿文の冒頭で問いかる。インターネットや携帯の普及を引き合いにだし、編集者や作家らによる、あたかもものが売れないのは客が悪いからだなんてベラボウな話があるだろうかと、問題が外側にではなく内側にあることを示唆する。そして雑誌をつまらなくしたのは編集者と作家のせいである、と自らの存在を含め断罪する。
かように出版と雑誌をめぐる環境は厳しく危うい。しかし、このようにモノや事を伝えるためのメディアは形を変え、媒体を変え、表現を変えながらも必ずこの世の中にこれからも存在しつづける。そんな時代にメディアを通じてデザインを語ることを生業にする僕らは何をするべきなのだろうか?今こそ問題解決としてのデザインの方法論が社会性を持ちながら書くこと自体や、人びとや仲間たちと結びついて、今ない形の自由な新しいメディアをつくる時なのではないだろうか?そんな事を今回のトークイベントを思い出しながら思ったりした。
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