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アレン・ギンズバーグ覚書...2


詩を愛した繊細な若者は決まってパリに、フランスに憧れをいだく。ギンズバーグも例外ではなく、「吠える」で大成功を収めたのちの1958年から1959年にかけて、恋人のピーター・オロブフスキーを連れだってパリで生活している。パリでギンズバーグはジャズとタバコ、そして男色の生活の中で、「ミラボー橋のしたセーヌは流れる」で有名な吟遊詩人アボリネールの墓に自らの詩集「吠える」を供える。パリへの旅は青春時代の憧憬に別れを告げる旅でもあった。それだからパリで書かれた詩にはビート詩人としてのヒップな印象よりロマンチックな風貌が強く備わっているようにみえることは偶然ではない。
ビート詩人たちはむやみやたらに社会を批判したり麻薬で現実から逃避しているのではない。社会の通念にがんじからめになった生活からの離脱という、人間性の回復を標傍した。それはあらゆる意味においてひとつところにおさまらず、放浪することにも繋がる。
しかし注目すべきはそこではなく、ギンズバーグは常に愛の詩人であったことだろう。度重なる精神病の発作の果てに亡くなった最愛の母親ナオミに捧げられた名作「カディッシ」はいうに及ばず、あのビート詩の金字塔「吠える」も友人である詩人カール・ソロモンに捧げられたものであることを忘れてはならない。冒頭「僕は見た 狂気によって破壊された僕の世代の最良の精神たち」とはカール・ソロモンをさすものであり、この詩の中で語られるヒップな若者たちはジャック・ケルアックの「路上」の若者たちとも結びつくだろう。
放浪は時に逃避というマイナスイメージでとらえられることもあるマイノリティなものだが、ギンズバーグがユダヤ系アメリカ人であったことから、ビートの特徴のひとつであるこの放浪というイメージを「周縁性」に結びつけて考えるのが一般的になっている。そこでの周縁とは人種的な意味での周縁のことであり、アメリカの白人社会におけるユダヤ系アメリカ人、そしてスラブ民族という周縁に属しつつ、アメリカ国内においては白人であることによって主流で有り得たという一見矛盾した自己の存在がギンズバーグをして放浪に走らせたのではないか?家庭では最愛の母親ナオミの精神的錯乱の中でえもいわれぬ精神的な痛手を被り、ユダヤ人であることで社会とは同化されえぬ疎外感を味わう。その苦しみがビート文学にあって特徴的な人間探求、真理の追求に繋がり放浪することと結びつく。戦後フランスで生まれた実存主義の哲学の「行動の中以外に現実はない」という言葉が思いだされる。
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アレン・ギンズバーグ覚書...1
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アレン・ギンズバーグは1926年ニュージャージー州ニューアーク生まれのアメリカの詩人だ。学校の教師で詩人でもある父親ルイス・ギンズバーグはユダヤ系の血をひくアメリカ人。母親ナオミは幼い頃ロシアから移民してきた女性。アレン・ギンズバーグはそんな二人のあいだに2番目に生まれた男の子だ。
私がギンズバーグの詩に出会ったのは、20年ほど前、アメリカのロマン派の詩人の一人としてだった。当時すでにあの有名な「吠える-Howl-」や「カディッシ-Kaddish-」は上梓されていたので、私はあのビート詩人としてではなく、ロマンチックなアメリカ詩人の一人としてギンズバーグを認識していたということになる。

アレン・ギンズバーグはヒッピーの代表、もしくは代弁者のようにもみられる。それはギンズバーグがベトナムなどの反戦運動に参加し、時に詩の朗読をしたり、恋人と共にインドに渡り隠遁生活を送ったことに由来するものだ。インドから帰ったギンズバーグはニューヨークでは賢者のように迎えられたという。そして自らを仏教的ユダヤ人と自称したりした。
ヒッピーの語源はビート詩人たちがいうヒップな人びとに由来する(ギンズバーグは詩集「吠える」の冒頭彼らを讃えヒップスターと表現している)

またギンズバーグを語る時避けられない言葉のひとつがビート詩人たちがヒップと対峙してつかう、「スクェア」という言葉だ。スクェアとは文字の意味合いでは四角を表わす。ヒップな人びとがスクェアというとき、それは社会の規範にしたがい抑圧されている人をさす。それは彼等に言わせてみれば好んで抑圧されている人びとのことなのであろう。
ギンズバーグのメディアにおけるイメージは髭を長く生やした、頭髪の薄いヒッピーのようなイメージではないだろうか?代表作「吠える」を上梓したのが1955年。その頃のギンズバーグは豊かな髪をポマードで横分けにした極めて身なりの良い若者といった風情だ。そもそもビート詩人たちは50年代のいわゆるフィフティーズの時代に生まれたことを忘れてはならない。
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...ALLEN GINSBERG...number twenty three...
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.....Who Will Take Over the Universe?



(taken from PLANET NEWS 1961-1967)
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詩人マヤコフスキーの革命と恋
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ヴラジーミル・マヤコフスキーはロシアの詩人である。
一般的には革命の詩人、もしくはプロパガンダの詩人として知られているマヤコフスキーであるが、その詩における表現方法はあくまで私的で人間味に溢れ、生命力に満ちたものである。
現在ロシアの文学・哲学は忘れ去られたようにあるが、マヤコフスキーが生きて活躍していた1920年前後のロシアは間違いなく世界の文化を牽引する力を持っていた。
1917年の社会主義革命を「ぼくの革命」と呼んだマヤコフスキーの有名な言葉は、革命以前と革命以後のマヤコフスキーの生き方にどのような科学的作用を及ぼしたのか?
1917年の革命を待たずしてマヤコフスキーは民衆を古い因習から解き放つ為に、街角で自らの詩を朗読し時に自ら道化になり、新しいロシアの為の詩を書き民衆を扇動した。
マヤコフスキーが1917年の社会主義革命をいかに狂信的に信じ自分自身の為の革命として受けとめたかは想像に難くない。いよいよマヤコフスキーは革命のプロパガンダの詩を書き絵画を描き、演劇に手を染め、数千枚のプラカードを書き、匿名の詩を書きはじめる。
しかし革命の使徒としての民衆の為のプロパガンダの詩人という顔と、自己を赤裸々なまでにさらけ出すペシミスティックなまでの表現は決して一人の人間の中に相いれるものではない。
マヤコフスキーの一番美しい詩はパリで出会った恋人タチャーナ・ヤーコヴレワに宛てた手紙として書かれている。
その中で詩人は、首都モスクワの中の一人の民衆としてロシアの大地に立ちながら、ヤーコヴレワと出会った思い出の美しい街、パリ共々ヤーコヴレワを獲得しようと宣言しているのだ。

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