FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

MA design


やっとPCが復活しました。
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アフターコネクトオークション
コネクト2

コネクトオークションの第二回目が開催されて二週間。大崎にあるオークション会場でもある本部を訪れた。
町工場の三階にある、倉庫然としたフロアはさしずめアーティストのアトリエといったおもむきで、大きめのキャンバスと散乱した絵の具が似合う広がりのある空間だ。

実際に壁には大きな絵画がかけられ、気のせいか絵の具のにおいならぬ倉庫独特の鉄の錆のにおいがする。

オークションのあとの発送の手はずや、アフターセールのために並べられた時代もののファニチャーをみていると、プロダクトデザインが生まれてくる現場がもつ熱のようなものを感じる。
そして何よりアートとも、単なる日用品とも異なる、優れて機能的な美しさをもつそれらのプロダクトデザインには、自らその機能を語りだすような饒舌さを感じた。

その機能とは使い手が余計な考えや理由づけをしなくても、黙ってものを見ていればおのずと理解できるような、そんな当たり前なもののことだ。

あらためてことさら語らずとも理解しうるようなもの。

だからこの場所は静けさが漂っていながら騒々しい。
ひとしきり探索をして、ものたちがかたるところのものに耳をかたむけつつ、お邪魔したことの挨拶を交わし、このアトリエをあとにする。ぱたんとドアをしめた途端に声にならない音のようなものも、遠くにあとずさりしたような気がした。
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...yanaka geikou tenn....
谷中

谷中で芸工展が開催中です。芸工とは工芸とも少しことなるらしく、それがこの名前がついた由来になっているようです。工芸とは辞書をひくと「実用性と美的価値とを兼ね備えた工作物を作ること。また、その作品」とあります。谷中芸工展は今年で15回目。毎年この時期に行われています。
この町にある、ものを作ることや売ることをなりわいとするいくつもの工房や商店の軒先には、谷中芸工展と刷られた赤い手提げがさがっています。
どの町にかぎらず町歩きは楽しいものです。そこにはそれぞれの異なる暮らしや風景があり、それが町の顔ににじみ出しています。それを感じられる町を歩き楽しいものです。
谷中という町は上野の山と、西片などの高級住宅街を含む台地である本郷の間の谷間にあることから付けられた地名だそうです。たしかに谷中のまちまちにはくねくねと曲がりくねった道や路地があり、井戸もそこかしこにあります。それはこの町にかっては小川が何本も流れていたことを思わせます。

谷中に限らず下町にはかって川が多く流れていて、それを埋め立てて作った曲がりくねった道路が数多くあります。私が生まれ育った浅草にもそんな謂れをもつ道が数多く、小さい頃に釣りをした川のなかには埋め立てられて緑道になった川も少なくありません。
谷中は町歩きが楽しい町です。それはかって小川が流れいくつもの丘があり、緑の深いなかに小さな村があったことにも由来しているのかもしれません。
今でもこの町の人々は緑や町に共生するいきものをいつくしむ心を持っているし、かって美しい泉があり今は井戸になっているその同じ水を今も大切にするこころを忘れていません。ひと昔まえまではどの町にもあった町の人々が共同で使う井戸も、今では危険であるということからそのほとんどが埋められてしまっています。

いま谷中に残っている人々のコミュニティは、そんな人と人とのつながりを大切にする気持ちが日々の生活のなかで大切にはぐくんできたものだと思います。それはただ維持しようとすることからは生まれえないものです。それは強い意志で日々努力していく生活のなかから生み出される工芸のようなものです。
だからこの町の人々が作る日常のための小さな道具は、日々更新されていく暮らしのなかから生み出されてきたものだと思うのです。
芸工展とは、そんな谷中で暮らす人々の一年に一度のお祭りです。


※谷中芸工展  10月14日(日)まで東京都台東区谷中界隈で開催されています
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失われる建築...80年代東京と今をつなぐもの
どう

バブル前夜の1980年代前半。東京の街は劇的に様変わりしつつある予兆をはらみ、ダイナミックな転換の時期を迎えていた。その頃まだ街には昭和の香りのするものがそこここに取り残されていた。1980年代も中頃に入るとバブルのおとずれとともに、それらは取り壊され新しいものが勃興した。

純粋階段、無用門、無用庇などの赤瀬川原平氏たちが作り出した造語は当時私をわくわくさせたものだ。古いものが取り壊されるときそこにはそれに連なる街並みや用途は切断されて残る。現代では土地や建物は個人や企業に属するため、街は一連の連なりの中で語られることはなく、それぞれが断絶した個人の持ち物として完結している。
それぞれはお互いに関連つけられ再構築されることはない。

それは都市論、建築論として語られるまでにそれぞれの時代をつくる契機になる。
1980年代中期以降のバブルの訪れとともにそれらの都市の異物たちはまたたく間に、首都東京からはその姿を消していく。著書の中にも触れられているが、それはその当時すでに発掘したときに写真に記録、検証していかないとすぐ失われてしまう都市のはかない姿に他ならなかった。

東京では地上げという懐かしい響きの言葉とともに、幼い頃の近所付き合いや幼なじみは、それを記憶する人間ななかにしか存在しないものになっていった。
当時土地をもち暮らしていた都市部のかなりの数の家族が、つかの間の土地の高騰のあおりと利益を目当てに周辺の町や、当時林立しつつあった都市部の高層マンションなどに引っ越していった。それは都市部にまだ残っていた濃密な人間関係と町と人との繋がりの喪失を意味し、都市の生成とその周辺地域を様変わりさせ、郊外という言葉を生み、そこに住まう人間の心理を変容させ、心理的な目に見えないダメージを人間に与えた。
犯罪は密室化し、個人の心理をうつしながら陰湿化していく。
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超芸術トマソンと東京
超芸術トマソンと東京

私が影響をうけたもののひとつに超芸術トマソンがある。影響を受けたというか、すでに漠然と自分の中にあってそれに名前をつけてもらった、というものだろうか。
超芸術トマソン(書物は1985年白夜書房刊)とは赤瀬川原平氏が名付け親となり、街なかに点在する(孤立する?)作者の意図なくして芸術にまで昇華された人間が作った造型物のことをいう。

そのトマソンとは1981年から2年間のみ日本のプロ野球ジャイアンツに在籍していた大リーガートマソン選手のことをいう。トマソンは現役大リーガーとしてなりもの入りでジャイアンツに入団したにも関わらず、肝心のバットに球が当たらず、高額の年俸を貰っていながらベンチを温めていることが多かった伝説のスラッガーである。
赤瀬川原平氏の著書『超芸術トマソン』によると、トマソン在籍時に氏が発見した超芸術に名前をつけるとき、まさしくそのトマソンの在りかたがそれら無用な愛おしいものたち実存とぴったりと合致したのだという。
それはまた建築やデザインのポスト・モダンの流れとひそやかに通底していたことを忘れてはならない。

赤瀬川原平氏のトマソンは野球選手としての役目を果たしていないにも関わらず、シャイアンツから手厚く保護(年俸によって)されていたトマソン選手の在りかたに由来する。それは実在しながら実際の用途を持たず、しかも人間の手によって丁寧に養生されているもののことでもある。
トマソンがトマソンでありうるためには、社会的には無用でありながら、人間によって手厚く加護されていなければならない。
それのアイロニーに満ちた実存は、今にして思えば最近ちまたで流行の都市伝説のひとつと言えはしないだろうか。

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