FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

コンスタント・ニーヴェンホイスと「ニューバビロン」についてのメモ書き
1.jpg

コンスタント・ニーヴェンホイスとニューバビロンについての、南後氏長坂氏門脇氏のレクチャーについてTwiiterで告知したところ、リツィートが多かったので、このコンスタントとコンスタントが提唱したプロジェクト、「ニューバビロン」について、少しでも知らなければつまらないような気がしてきて、いろいろな記事を無作為に参照しながら少し調べて書きながら勝手にかなり一方的な理解を承知のうえで考えてみる。
コンスタント・ニーヴェンホイスは1920年にオランダに生まれた芸術家。1957年に結成された芸術建築都市を研究するグループであるシチュアシオニスト・インターナショナル(アンテルナシオナル・シチュアシオニスト、S.I、1957-1972)の創立メンバーになっている。
今村創平氏のテキストによれば、シチュアシオニストの思想や活動は、シチュアシオニストの「漂流」というアイデアがバーナード・チュミの「マンハッタン・トランスクリプト」を生み出し、同じく「心理地理学」からははナイジェル・コーツの運動「今日の物語建築(NATO)」が作られた。そしてフィールドワークという概念もシチュアシオニストがもっていた概念に大きく影響を受けている。レム・コールハースに端を発する都市のリサーチにも影響を与えているというから、シチュアシオニストの活動は建築や都市を考える上で無視出来ないものであることはどうやら間違いがなさそうだ。ちなみにレム・コールハースはジャーナリスト時代の22歳のとき、コンスタント・ニーヴェンホイスにインタヴューしている。それが建築家への転身のきっかけになったことは知られた事実だ。
それにしてもシチュアシオニストとはなんだろうか?
シチュアシオニスト、辞書で調べると「状況主義者」、あるいは状況構築主義者とでる。状況の構築の理論あるいはその実践に参加すること、そして状況を構築することをつとめる者。人名としては、フランスの思想家で映像作家ギー・ドゥボールの名前が一番最初に上がってくる。ドゥボールはアンテルナシオナル・シチュアシオニストの設立者。アンテルナシオナル・シチュアシオニストが設立された1957年といえば、映画作家としてのギー・ドゥボールの世界、前衛的な映画批評家たちが万年筆をムビーカメラに持ち替え、ヌーベルヴァーグといわれる映画を撮り始める前夜と重なる。ヌーベルヴァーグの映像作家たち、ゴダール、トリュフォー、シャブロルらはアメリカ映画を中心とする映画の商業化を批判し'68年のカンヌ映画祭をボイコット。その後「ジガヴェルトフ集団」を名乗り、政治色の強い映像作品を発表していく。

シチュアシオニストは芸術活動という側面と、政治的な、マルクス主義的社会革命、あるいは現状の社会に対する批判的介入としての文化革命といった側面をもつ。コンスタントは後者に属するとサイトには書いてあった。
また、シュールレアリスム運動乗り越えに端を発する「前衛芸術運動」時代、あるいは'62年頃から68年五月革命に至る「政治運動」時代という2つの異なる側面をももつ。これは、’60年代という時代に多分に関係していると思う。'60年代といえば、'50年代後半から続く世界的な変革の時代。この二つの異なる側面がシチュアシオニストをして過激な政治運動とも前衛芸術運動とも、その理解をなかば混乱させる要因になっているような気がする。
実存主義を唱えたフランスの思想家で小説家のジャン=ポール・サルトルの連作評論集「シチュアシオン」が出版が開始されたのが1947年。当初は作家論であったが、社会の政治状況の変化にともない、政治論となっていく。サルトル(師匠)とドゥボール(生徒)という関係性も、'80年代当時フランス思想かぶれであった僕には見逃せない。サルトルは「シチュアシオン」の中で、作家とは「語る者」である以上、現在の社会状況に対して無視していてはならないとして、「行動」の必要性を説いた。僕のシチュアシオニスト理解もこんなところからはじめられそうだ。

さて、コンスタントの「ニューバビロン」だが、芸術家であるコンスタントがなぜ、こんなにも建築や建築家を考えさせる存在たりえているのか。
コンスタントは1952年にアムステルダム市立美術館「人間の居住空間」展で、年少の建築家アルド・ヴァン・アイクと画家と建築家の立場として共同、「空間的色彩主義」を提唱、具現化した。コンスタントはこれを機に建築へと傾倒していったという。色彩と形態の癒合はその後の「ニューバビロン」(1957年)において影響を残している。それに先立つテオ・ファン・ドゥースブルフやモンドリアンらによる、同じオランダの芸術運動「デ・スティル」が色彩のシステムと幾何学的な造形原理とからなっていたことと通じるのだろうか。
そこには「ニューバビロン」が都市を題材にしていながら、建築家ら都市計画者らの「都市計画批判」として存在し、都市の主体をその使用者=住人においていることとも関係しているかもしれない。コンスタントは「ニューバビロン」という名の都市構想プロジェクトにおいて、住民主体のカスタマイズと、そのための技術からなる未来都市、「統一的都市計画」を提唱している。コンスタントが描いた未来都市における、理想的な住人(ニューバビロニアン)は労働と余暇という資本主義の二元論を乗り越えた存在としてのホモ・ルーデンス(遊戯人)とされ、彼らの都市における「遊戯」ふるまいによって都市が永続的に創造されていく。
コンスタントにとって、都市とは特権的に人格によって一元的に創造されるものではなく、社会の権力関係とは無縁なところから創造される。コンスタントはル・コルビジュエの機能主義を否定するのではなく、それを批判的に乗り越えるのだといったという。
既成の都市計画のあり方をを批判しながらも、「ニューバビロン」という、それを構成する住人の永続的自主的な活動によって都市の未来像を描いたコンスタントの50年以上も前の思想は、現代において都市を考える上でも重要な示唆を与えてくれそうだ。
Philosophy | permalink | comments(0) | -
開花する建築内向する建築
ja

現在の、'70年代生まれの建築家やデザイナーの示す建築における問題提議の新しさや面白さは、'80〜'90年代に思春期をはぐくんだ世代というのは独特の社会との関わりがあるのではないかと想像する。
サブカルチャーの全盛、少年犯罪の問題、それらが自分と同等に語られ、社会の少年たちを見る目が確実にそれまでとは変化した時代である。自分を守るためには内に入って自己を確立することが最前の手段であり、社会から向けられたそのような画一的な視線は、その同じ社会にある諸問題と等しくそこにあるだけに切実だ。
多分それは'70年代に始まり、ポストモダンを経験してきて(バブル)、たどり着いた先が'90年代だから、そんな大人たちが経験してきた社会の、「うわずみ」のようなものに子供たちが溺れてしまったのだろう。
そして2000年代に入ってそんな自己を、唯一無二の存在として前向きに肯定しだしたことが'70年代生まれの彼らの現在の躍進につながっているのだろう。

その表現の表れかたも個人的な思考に基づき内向的ではあっても、実際の建築のプロセスにはお施主や、実際の施工を手がける工務店や職人などさまざまな人々の手を借りて成立する、社会的なシステムの上に成り立っているから、いやがうえにも社会性のある表現になっている。それがどう批評の対象になろうと、そこには間違いなく他者が存在している。
それが私的な表現であっても、たかだか10年前と比べても格段に進歩したテクノロジーの、理にかなったものを生み出す定理に基づいた建築は、しっかりとした構造設計と結びつくことで、人が住むためのしっかりとした根拠のある建物へとつながっている。

建築もデザインも、もはや2000年代には工業的に語るよりも、工芸的に語るべきなのではないかと思う。

それは現在の建築やデザインがすでに実践していることだ。
それがしいては人間をとりまく環境や自然に結びつき、現在蓄積した諸問題の解決のための糸口になるかもしれない。
たとえそれが独りよがりな表現に陥ったとしても、個は(子供は)全体(親)は内包をするものだし、わかりきったことなのだが全体は個を含むものなのだ。

工業も工芸も、それを区別するものは時間だけで、物理学もそれがない時代には、世界を考える方法は形而上学が中心で、科学や力学も形而上学的な思考からあみ出されてきた魔法のようなものではなかったのか?
おなじように産業が産み出した二次産業としての工業も、それがないときには、ものは全て、手と頭で考えられ、工芸はしごく当たり前のものであったのだ。


※写真は「デザイン・アディクト2」特集ニッポンの新鋭建築家20人+αより
Philosophy | permalink | comments(13) | -
...christien meindertsma...checked baggage...
cb

クリスティン・メンデルツマは1980年オランダのユトレヒト生まれというから現在26歳の若きクリエーターである。
2003年にアイントフォーフェン・デザイン・アカデミーを卒業し独立、2004年に発表された『CHECKED BAGGAGE』は、驚きと確信に満ちたアイデアで一躍クリスティン・メンデルツマの名前を有名にしたコンセプチュアルなアート・ブックである。
カッターナイフやはさみ、サバイバル・ナイフ、フェイクのピストルといった一目でそれと分かる危険物や、先の尖ったキーホルダーや爪きり、子供用のフォークとスプーン、ワインオープナー、それら意味ありげなオブジェといった偶発的な、だが危険物になりうる日用品がアイテムごとに整然と並べられ写し撮られた様は、ページをめくる度に不可解な、だが確信に満ちたテロリズムの脅威をとつとつと伝えていて、ものと人との関わりを根底から脅かす・・・
Philosophy | permalink | comments(0) | trackbacks(3)
...about a sublime...2.

例えば、ペッシェの芸術に具体的にサブライムの概念が関連付けされていないとしても、明らかにそこに死の影や自然の不思議が含まれていると言う点において、ペッシェに於いても他の芸術家たちと同じようにサブライムの概念を持ち出す事は可能なのだ。
その様なサブライム的なるものは、日常、常に意識されてあるものではなく、元来抑圧されたものとして意識下に追いやられている。
それらは繰り返し意識上に持ち出されては、苦悩の種を撒く芽にもなるが、それは痛んだ虫歯を度々舌の先で触っては、快感にも似た痛みを繰り返してしまう行為に似て、決して苦痛と苦悩のみを人に与えるというものではないから如何にも厄介である。

そもそもサブライムの概念は、18世紀頃、盛んに美というものと対比されて論じられてきたという経緯がある。
美が女性的なものと結び付けられて論じられる事が多いの対して、サブライムは男性的なもの、巨大なもの、自然というものと結び付けられて論じられてきた。
ロマン派の詩人や画家が自然と対比させて人間を描く事に終始したのにはそのような思想的な背景がある。
現代に於いてもサブライムは重要な美の概念として機能し得るだけの力と影響力を秘めて偏在している。

自然の摂理が引き起こすものや、自然の摂理の中に取り込まれる事柄は、日常のシステムの中に取り込まれることによって、あたかも日々の生活とは無縁のものとして切り離されてあるが、私たちはそれをただ無縁のものとして意識下に追いやっているに過ぎず、決してそれらが消えてなくなってしまったのではない事に自覚的になる必要がある。
それらはまた、人間が主観=思考に於いて考え出した事柄に過ぎないとしても、あくまでそれを自らの外に客観的事実として扱うところに根本的な事実のすり替えがある。
そうやって我々は日常を事も無げに遣り過ごす術を身につけてしまったとしても、いつの日か崇高なるものの庇護のもとにある自分の存在に気づく時が来るのだ。

Philosophy | permalink | comments(0) | trackbacks(0)
...about a sublime...1
Philipp Otto Runge: Der Morgen

先日来、ペッシェの事を考えていた時から、美というものと、死=タナトスについて関連付けて考えるようになり、その様な考察から、必然的にサブライムの概念について考えるようになった。サブライムとは、『崇高なるもの』、の意であり、哲学者カントの言葉に従うのならば、サブライムはタナトスと関連付けて考える事が必然であるようである。

崇高なるものの力は模造物には宿らず、そもそも人間が意図して創出為うるものではないものの定義である。
サブライムとはただ単純に神々しいものの意ではなく、時に人を畏怖させ、たじろがせるたぐいの、潜在的に内在された人間にとっての恐怖に近い概念を含んでいる。潜在的にその様な様相を含んでいるので、それはまた無意識を引き合に出して語る事も可能となる。ある種の芸術家たちにとってそれらの概念と向き合う事は作品創出のための一つのテーゼとなる。

18世紀、美術の世界では風景を主役に据えて画を描くことは極めて普通のことであり、それは美と関連付けて自然が対置されることによって成り立つ技法であり、人手の及ばないものとしての自然、いわゆるロマン派などによって確立された風景画は、そのように自然をサブライム=崇高なるものとして位置付け、普遍なるものとして扱った。
そのように自然がアイコンとして捉えられるとき、そこには人の手による作為的な意図が生まれてしまう。しかし、この場合、自然と対峙しているものが人間の主観である以上、決して捉えきる事のないものとしての自然が恐怖を与える、ということは頷ける事柄ではあるが。

自然と同じように死も決して人が捕らえきることの出来ない、未知なるものとしてあるからこそ人に恐怖を与える要素を含むのであり、決して捉え切れない、という事を以ってして人間の範疇から離れているものである、とも言えるのだが、そのような意味合いを含みつつ、死生観は、おのずから崇高さを帯びてくる。
またしても、そこには人が決して捉え切れない謎としての恐怖が潜んでいるのだが。
Philosophy | permalink | comments(0) | trackbacks(0)
...about a sublime...Mary Shelley...
Mary Shelley...
















Philosophy | permalink | comments(0) | trackbacks(0)
岡尾美代子さんの本   もののみかた



manufactures=製品・製作物といった意味だろうか?
一般的にかわいい・おしゃれと言われている岡尾さんにしては素っ気ないタイトルである。
岡尾さん御本人が実際に自宅で使用している様々な愛用品が52点。
私ももしこの様な本を出版出来るような機会があったのなら52点もの愛用品を実際に目の前に並べる事は可能か?もしかしたらその数はそれ以上かもしれないし、それ以下かもしれない。この様な場合、数が問題なのではなく質が重要なのは充分承知しているがそれでも、である。もしかしたら岡尾さんのファンの方にはこの本で選ばれた品々はさして珍しいものたちではないのかもしれない。それでも男の目から見ても岡尾さんが普段の生活で使用されているものたちは充分に美しいストーリーにみちているように思える。だがそれはなぜか?
岡尾さんはものをかわいいとかおしゃれという自己の価値判断では選ばないと言う、もののもつ背景(それはどうにも変わりようのない絶対的なものだ)やそのものの持つストーリーに導かれるようにそのもの自体に強く惹かれるのだと言う。それはかわいいやおしゃれという言葉の持つ主観的な価値判断とはまったく異なるものだ。わたしがいいと思うからこれはいいのだ、という価値基準は一見するとその判断をする個人にとっては揺るぎようのない絶対的な事実にみえる。しかし人の心はうつろいやすい。それは誰もが冷静になって自らの心に問うてみれば分かることだ。だがそのもの本来のすがたに着眼しその揺るぎようのないもの本来と向き合うことは決してたやすい事ではないし、それに気づかずにいることの方が多い。何故ならそこには容易く主観というものが頭をもたげて来るのだから。もの本来とは言い換えれば一個人の主観や判断や選択を許さない絶対的な<物自体>のことである。<物自体>と向き合うことはそのものが語るところのものに耳を澄まし耳を傾け静聴することである。
ものを選ぶ、ということは<物自体>と掛値なしに正面から向き合うことだ。
だからこそ私はこの本にかわいいやおしゃれではなく<哲学>を垣間見るのだ。

Philosophy | permalink | comments(8) | trackbacks(0)
そこからはじまるもの The one that starts there


美しいデザインと美しいと思えるデザイン。
それを私は私の直感に委ねます。
目に見えるものの中にある目に見えないもの。
見えないものの中にある見えるもの。
それを私は模索していきます。

Beautiful design and design that seems to be beautiful.
I entrust it to my intuition.
The one not seen eyes that exist invisible thing.
The seen one that exists in thing not seen.
I grope for it.
Philosophy | permalink | comments(0) | trackbacks(0)