FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

大阪京都ツアー EXPO'70編


一泊二日で大阪・京都へ。まず向かったのが1962年に入居がはじまった日本初の大型ニュータウンである大阪市郊外にある千里ニュータウン。モノレールと高速道路を谷にそれら交通網を囲むように小高い丘がひろがり、そこにはりつくように濃密な住居群がひろがる。そこには大小新旧さまざまなスケールの団地やマンション、最近では高層マンションや、ショートケーキハウスと呼ばれる一戸建てなどが混在している。
大都市周辺に立地するニュータウンは、日本の高度経済成長期とときを同じくして1960年前後、東京や大阪の大都市圏の郊外にイギリスやアメリカの郊外型住宅街をモデルにつくられた。この千里ニュータウンは日本の大型ニュータウンとしては初となるものといわれ、兵庫の六甲や須磨、大阪の泉北、神奈川の港北などその後生まれた東京や神戸周辺の同様の大型ニュータウンのさきがけといわれている。



モノレールや地下鉄が乗り入れるターミナル駅となっている千里中央駅前には、アミューズメントパークのようなアメリカ中西部の町をイメージしたようなテラスのついた典型的は郊外型のショッピングモールのある風景がひろがっている。
高速道路と平行して走るモノレールはこのニュータウンの周辺部に沿うように谷になった小高い山の淵をめぐる。万博開催当時はモノレールは開通しておらず、この一体は比較的交通の便の悪い地域であった。団地とグーグルマップからもはっきりと見える3つのガスタンクを越えると緑深い一体がひろがり、そこが1970年に開催されたEXPO'70の会場であり、現在万博記念公園となっている一体だ。
万博中央駅に近づくにつれまず目に飛び込んでくるのは、岡本太郎作となるこの万博のシンボルで現在残されている数少ない当時の施設である太陽の塔の姿だ。万博開催から40年の時を経て大きく育った木々のあいだから身をひとつ抜けてそびえる巨大な彫刻作品である。



記録映画や写真では何度も見たことがあるのだが、実物を目にするのは初めて。正直こんな大きなものだとは知らなかった。近づいて見てみるといっそう大きく感じる。この塔はプリミティブな人間の生命力を躍動感をもって表現したものと思われ、「人類の進歩と調和」をテーマに、世界各国が競って未来に向けた科学技術の粋を競い合った万博のなかでも、その見た目、コンセプトといい異質なものだったのではないだろうか。塔の足元は現在では芝生のひろがる広場になっているが、万博当時はお祭り広場という絢爛豪華なショーやパレードなどが行われたメイン会場がひろがっていた。
これまでも優れた都市計画を構想してきた建築家の丹下健三氏や、磯崎新氏、黒川紀章氏らが共同でてがけた太陽の塔を中心にする祭壇ともいえる広場は、今となってみれば原初の祭礼における宗教的なアイコンを中心にすえた、神秘的でなぞめいた儀式のようにもみえる。



太陽の塔と相対するように高速道路をはさんで向かいの丘にそびえていたのは、プリミティヴとは双璧をなす未来のバベルの塔、菊竹清訓氏が設計を手がけた天にも届くような強大なエキスポタワーだ。こちらはまるで宇宙ステーションのような構造むき出しの巨大な火の見やぐらのような格好をしていた。
展望台をかね建造されたこの塔は、中央には展望室に続くエスカレーターを備え登頂よりだいぶ下の場所に住居をかねた多面体のキャビンがいくつか備え付けれらている。丸い窓をもったこのキャビンは当時菊竹氏らが提唱していたメタボリズムの思想を反映させていた可動増殖可能な居住空間であり、このタワーは単なる万博のランドマークというよりは、未来の人間の居住空間を示すという意味合いが強いといわれている。

そのエキスポタワーは大阪万博終了後開場したエキスポランド(現在閉園中)の施設となり、色も万博当時の近未来的なシルバーではなく、赤と白のツートーンに塗り替えられた。
そのタワーは老朽化を理由に1990年に閉鎖。太陽の塔が永久保存が決まったのとは裏腹に、さび朽ちるままに放り置かれていたという。2002年にいよいよ撤去されることになったとき、一部のマニアをのぞき反対する者もほぼなく静かにその役目を終えた。
そのエキスポタワーの廃材の一部をアーティストのヤノベケンジ氏が譲り受け、アートオブジェ「タワー・オブ・ライフ」をつくっていたことは知っていた。そしてそれがエキスポタワーの跡地のコンクリートの上に備え付けられているこも何かの資料で見たことがある。

今回そのエキスポタワーの跡地を、万博公園の広大な敷地を高速道路とモノレールの線路をはさみ、今は動くことのない遊具がひっそりと静まり返るエキスポランドの敷地にのこる人のあまり通ることのない、果てしなくながく続く急な階段をのぼり見に行ってきた。



小高い丘の頂上につくと、ここにたどり着くまでの長い階段にも設置されていたエキスポランドの白い柵が左側に続き、中央の幅10メートルほどの自由通路をはさんで右側にも同様の白い柵があり、その向こうがそれほど広くはない空き地になっている。一見そこがエキスポタワーの跡地とは分からなかったのだが、柵越しになかをのぞいていると何やらスペシフィックな銀色のオブジェが潅木の横に無造作に転がっている。三角のパネルに半円形のドームがはめられたあまり大きくないオブジェ。その横にはエキスポタワーの一部と思われるボールジョイントがひとつ転がっている。柵越しに目の前にあるこれがエキスポタワーのキャビンのパネル12枚とボールジョイントでつくったというアートオブジェ、「タワー・オブ・ライフ」だった。

しかし、その作品が発表された当時の赤と白の配色ではなく、眩しいばかりのシルバー一色に塗られている。しかもボールジョイントははずされ外殻のみ、不自然に隅のほうに寄せられている。それはまるで打ち捨てられながらもその存在を主張する不思議な存在感を放ってそこにあった。
もしかしてこれはヤノベ氏が言うところの、熟れた果実がさらに時を経て、新たななぞめいた力を得て銀色に発光しているような異様な光景であった。もしかしてこのエキスポタワーの一部でつくられたオブジェは、ほんのちいさな破片になっても新しいストーリーをつむいでいるのではないか。
ヤノベ氏が言う世界中の廃墟を舞台にした「時間旅行」という再生への旅はまだ終わっていない、ということなのだろうか。




※当時の展示物の一部は敷地内にある万博記念館にて見ることができます。

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向田邦子 鮮やかな女性の生涯
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世田谷文学館で開催中の『向田邦子 果敢なる生涯』を見た。
向田邦子は愛の作家だと思った。時代は高度成長経済の真っ只なか、人びとはテレビや雑誌のなかにうつし出される、豊かな生活の提案にこれからの明るい未来をつなぎあわせていた。
そんな映画や雑誌文化、そしてテレビの中を駆け抜けて生きてきた、鮮やかな女性の生涯。それは今の豊かな時代に生きるわれわれにも鮮明な記憶を残す。

誰もが憧れていた生活、そして女性が自らの希望をもって人間らしい、自由で感情的に豊かな生活。そんな夢を焦燥感にかられ、渇望して追いかけながら手に入れ、繋いできたのが向田邦子の生活だと思う。
幼いころから温かい家庭にめぐまれ、文化的な家庭で育った彼女。四人兄弟の中の長女でもあり、他の兄弟のなかでもリーダー的存在であったという。彼女の芯の強さと、はかないばかりの凛とした美しさは、幼い彼女のポートレートのなかにもしっかりと刻まれている。
幼いころに患った病が原因で不自由なこともあったようだが、彼女の明るさは戦中戦後を通じても不変の輝きを放っていた。
向田邦子のつむぎだすストーリーの鮮やかな人間模様は彼女の生きざまに由来している。それは人びとを描くときに垣間見ることのできる、優しい眼差しと、人びとの苦悩をもうつす稀有な眼差しの力によるところが多い。

秘められた彼女のブライベートを明かしてくれる小さなエピソードが書かれていた。
生涯を独身で過ごしていた彼女は、ひとりの男性と恋におちた。
身体の弱い彼を気遣うように、手紙をしたためる彼女。それに対して忙しい彼女をいたわるような言葉と、身体の不調から先行きの見えない暮らしの不安と戦いながら彼女とのささやかな家庭的な日常に救いを見い出す。
人間としての些細な日常と小さな幸せを綴る二人の手紙からは、たった一本のビールとさしみが人と人とを繋ぐ鮮明な記憶となってそれを追体験するわれわれにひしひしと迫ってくる。

46歳で大病をわずらってからも、生きることは輝きをうしなわなかった。精力的な海外への旅行。旅先で写された写真には生きることとは、死とは、そんなものが写し取られていた気がする。
向田邦子が愛して身近においた道具たちはどこか男っぽい。李朝の器やタイで買い集めたという陶器たちは道具というものとは少し違った、その人の生き方をくっきりと縁取るための生きざまに見えたのは私だけではない気がする。
また友人たちが使い込んだ万年筆をねだる向田邦子はかわいらしさに溢れいとおしい。

女性のはなしに省略がない、とは会場で知った彼女の言葉だ。
短くそして簡潔に向田邦子という女性の生き方をついていて、思わずメモしてしまった一言であった。
向田邦子は途中でこの世界から降りたが、彼女の生きざまはさまざまな訓示にみちている。これこそがまさに人が織り成す鮮やかなストーリーだと思った。

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...活版再生展..
活版

活版印刷のモノトーンの世界は様々な物語に彩られた色あざやかな濃密な世界だ。活版印刷の面白みは文字=鉛文字というものの組み合わせの妙にあるという。
すでに他の印刷技術に取って代わられ、淘汰されつつあるこの古い印刷技術は今若い才能ある若者たちによって再び脚光をあびつつあると聞く。いにしえのものの常として、それが良品邪品に関わらず失われることは常づねあることである。あるものが果て朽ちていくにはそのもの固有の事情がつきものだ。

現代における印刷技術に関してはスピード、正確、その規格に即した画一性が求められ、手作業、味わいは二の次、そしてインターネットの爆発的な普及などその要因は様々、時代時代の理由がともなう。
そのように優秀な技術が本来のあるはずの姿のまま存続していくことの困難は、時代の流れのなかで失われていくのにはその宿命ともいえ避けえないものでもある。しかしそれを伝承、刷新していくことは可能である。

時代の中でそれらは生まれたそのままのあり方においては失われていく運命にあるといっても過言ではない。それらが生きて残っていく為には新しいアイデアと技術とそれを活かしていこうとする活力が必要だ(それを活版印刷のその文字のなかからも見るのだが)

現在、三軒茶屋キャロットタワーで開催中の『活版再生展』はそういった意志が如実に働いた良い先例であろうか?metabolismさんのブログにもレポートされていたように、その古くいにしえの前時代的な技術に魅力を感じ、それを活かしていこうとする担い手たちには実際に活版印刷の印刷物で育ってきた若者は少ないのではないだろうか?それでも彼らをノスタルジーではなく生きたものとして対峙させる活版の技術にはそれ相応の魅力がある。
映画『銀河鉄道の夜』の中で主人公ジョバンニが薄暗い明かりの中で文字をひとつひとつ拾う作業は神々しさと健気さを象徴している。今の時代にそれらはもうふさわしくないかもしれないものの、それらを求める気持ちは今を生きる我々の中にもある。

言葉を憶えたての幼子のように言葉をひとつひとつ拾い集め紡ぐ作業はどこか生きるということに似ている気がする。
それは確実にひとつのステップを踏み次のステップに進むことを意味している。
失うことは容易い。たとえそれが物と人との関係であっても繋いでいくいのちの意味はある。
今後彼らのの手によってその志し通りに、活版という歴史も技術的に蓄積もある印刷方法がどのように再生されていくのか楽しみでならない。

活版再生展 〜5月20日
<SAB LETTERPRESS> 
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