FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

椎野美佐子さんのガラス
しいなさん

名古屋で出会った椎野さんのガラスはベネチアとも、北欧とも違う、愛知のガラス、というべき土地のにおいを感じるものだった。
愛知は焼物の原料となる良質な粘土や、ガラスつくりの原料となる珪砂が採取される土地柄。古くは瀬戸という民窯をもつことでも知られている。以前にご紹介したガラス工房、スタジオプレパの平さんも愛知県の出身。
今回椎野さんの作品を見たお店は、名古屋の花と現代アートを扱う、本山のフローリスト・ギャラリーN。おとずれた当日オープンしたばかりのフラワーショップは単に花を飾るという行為ではなく、フローリストが提案する、花とともに過ごす日常を豊かに彩る花の、そして植物との出会いを通して人のつながりを感じることのできる感性の高いショップだ。
椎野さんのガラス作品は日常の道具としてのガラスとはことなり、人が日常めでるための作り手の感性が反映されたアート性の高いもの。それはそれが置かれる空間をガラスという熱をともなった天然のオブジェにこめられた作り手のたましいのあり方を感じる個性の強いものだった。
しかし、ガラスというそのままでは自然に戻すことのできない環境に対する配慮を必要とするマテリアルと真摯に向き合う椎野さんのもつ個性とそのひととなりは、わたしにとってアートをたったひとつの個性に還元することのない、広い心をもったガラスの作り手という考えにむすびついていた。
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鈴木元さんのユニークベース
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厚さわずか2.3センチのユニークベースは、かたちのまえに存在を、そして空間そのものを意識させる建築のようだ。シュールな絵画のように、もしくはデッサンのなかの静物のような浮遊感は、あらためて自分が置かれている空間の奥行きや、それが拠って立つところの存在や時間というものを強力に意識させる。

鈴木元さんがデザインしたフラワーベース『Oblique-Vase』は、昨年のデザインタイドの会場でE&Yから発表されたプロダクトだ。鈴木元さんは1975年生まれの現在ロンドン在住のプロダクトデザイナー。松下電器産業(株)を経て渡英、'06年RCAデザインプロダクツ科修了。昨年六本木21_21 Design Sightで開催の『Chocolate』展にも参加した。
あやふやで、不思議な、空間のゆがみ。マスに向けたプロダクトである以上、アート作品というよりも完全なインダストリアルプロダクトとして企画され、より生産性を高めるために彼の地で量産される。開発に1年半を要したというデザイナー、マニファクチャーにとっても苦心の作である本作は、双方の熱意と理解ある関係性を感じさせるに十分な存在感をそなえている。

マニファクチャーとしてデザイナーには十分な共感を示し、存分にアイデアを発揮してもらい、マニファクチャーとしてそれに応えるための有益なガイドを示すことが務めであるというE&Yのスタンスは、それをクリエイトするデザイナー、そしてユーザーにとって有益な生活を豊かにみたすオブジェを提供すると思う。

昨年の秋に駒場のオフィスをショールームとしてリノベーションしたE&Yには、自社で開発した世界中のクリエーターとの仕事の成果が普通の暮らしの中にレイアウトされている。それは突然訪れたゲストのためのリヴィングルームになったり、ここを頼って集まるクリエーターたちの集いの場になったり、E&Yのこれまでの仕事の一切の仕事を知らない人でも楽しめる、くつろげるスペースを提供している。だからここにあるプロダクトは売るためよりも、豊かな生活のため、そしてより良く生きるための生き生きとした輝きにみちている。

デロールの岡田さんと、昨年のデザインタイド以来の再会となるこのオブリークベースを前にして共に感嘆し、お互いお揃いのグレーを土産に購入していくことに。さっそく家に帰って包みをほどき、今日の思い出にと花を活けて飾ってみた。やっぱり不思議だ。

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E&Y, OBLIQUE-VASE Design by Gen Suzuki
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.as an object to sublime...Hedi Slimane.1..
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最近話題の写真集「ポートレート・オブ・ア・パフォーマー・コートニー・ラヴ・エディ・スリマン」は伝説のロック・シンガー、コートニー・ラヴを現在ディオール・オムのクリエイティヴ・ディレクターを努めるエディ・スリマンが撮り下ろした小さな写真集だ。
2500部限定のこの作品集の中にはスリマンのDiorでのコレクションを着たコートニーの静かだが激しいパッションがモノクロのフィルムに切り取られている。
コートニーの時に少女のようで、時に裏道から出てきたばかりの野良猫のような表情はロックという音を抜きに語ることが不可能なくらい激しいリズムを伴って響いている。

生きることはこんなにも美しくて切ないからスリマンはカラーフィルムではなくモノクロのフィルムに美しい一瞬のひと時を閉じ込める。

感情はエモーションと直結するものだからそれを表現する為には音楽は不可欠だ。

私達の世代がいだく思い出にはいつも音楽が鮮明に結びついている。

だからこそスリマンが音楽とともにあり、その描く世界感に錆びた音楽のような古びた風景を結びつけるのは、スリマンが思い描くファッションの世界と、このあやふやで不確かな刹那の世界を遠近法的に見ることが慣れっこになってしまった少年の澄んだ、そして野蛮な感性を備えているからにほかならない。

少年は時にロマンチックでセンチでいて、時に凶暴で粗野なままの砂のようなものだ。
手を伸ばせば届く距離にいながら決して届かない刹那な存在の象徴でもある。そこにあるものは手の指の隙間からこぼれおちる忘却以外のなにものもそこに残さないひとときの風景のようなもの。

そこにあるものはただひたすら畏怖する存在の対象としての自然に置き換えることが可能な崇高ななにものかにほかならない。
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