FORM_Story of design(... Kato Takashi weblog)

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明日から広島です。20日土曜日には市内でトークセッションもします。ぜひお越し下さい。

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64年目の広島
 
広島は今日、64回目の原爆の日を迎えた。
毎年蝉のなくこの時期になると広島、そして長崎への思いは深くなる。今年はアメリカのバラク・オバマ大統領が大統領の立場から「核なき世界」を標榜し、核廃絶にむけた声明を世界に向けて発信。日本でもファッションデザイナーの三宅一生氏が広島での自らの被爆体験を、7月14日付けの米紙ニューヨーク・タイムズ紙に寄稿、戦後64年目にして初めてその原爆体験を告白した。

三宅氏が広島市出身であることは、氏と彫刻家イサムノグチとの関わりについて書かれた書物で読んで知っていた。その本には戦後7年目に竣工した、イサムノグチのデザインによる原爆により亡くなった人々を慰霊する目的で平和公園の入り口に建造された二つの橋、その平和大橋と西平和大橋という彫刻的な美しさを持った橋に、氏が未来への希望を抱いたことが語られていた。

被爆当時三宅氏は7歳。一人の人間が被爆という体験を、自らの内面に抱えながら64年という長い年月を過ごす苦労苦難は、それを体験したことのない人間にはわかるはずもない。
しかし、僕らもほんの少しのイマジネーションを働かせることができれば、被爆した人々のつらい体験のほんのわずかでも追体験できるのではないだろうか?人間であれば誰もの心の中にも刻まれているであろうその深い傷は、今に生きる僕らが背負っていかなければならない共通の十字架でもある。

これら二つの発言だけをみても2009年は、広島長崎にかって投下された原爆、そして現在の核の保有が拡散していく現状にある世界における、核廃絶にむけた重要な発言のあった年として記憶されることになるだろう。

大国が互いに核兵器を持つことで保たれていた核による世界平和という幻想は、テロリストが当の核を保有するという脅威によってもろくも崩れ去った。
今の時代に生きる僕ら、そして僕らの子供たちの未来に向けて、今何が出来るのか。そのことを若い僕らが今こそ真剣に考えなければならないのだろう。核のない世界をイメージすることがデザインの力で出来れば世界はきっと変わる。僕はそんな力をデザインが持ち合わせていることを信じている。
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公開プレゼ


広島市による平和大橋歩道橋デザイン提案競技の公開プレゼンテーションが、明日3月4日水曜日の13時から16時の予定で、平和記念公園内の国際会議場内「ヒマワリ」で開催されます。
第一次審査を通過した国内外の6組が公開でプレゼンテーションを行うことになっています。なお、同会場で応募29作品すべての作品が公開展示されるとのこと。

21世紀の平和のシンボルとなる橋は、デザイナーのどのような思いでどのようなデザインになるのか、開場で実際に観てその声を聴いてみたいと思っている。

先月上旬に広島市役所市民広場で展示された応募作品のパネル展示でも、応募者の熱意を感じる言葉なき静かなプレゼンがおこなわれていたが、今回は最初で最後の応募者自らの言葉による思いを伝える場になるだけに、半世紀以上の時をこえて人々の記憶に残るイサムノグチの橋にこめた思いと対峙する、広島という都市がこうむってきた歴史と、忘れがたい記憶につながるような、そんな思いを言葉で聞いてみたい。

※写真は広島名物中華そば「陽気」のカップ麺。中国地方の一部地域セブンイレブン限定で販売されているようです。

平和大橋歩道橋デザイン提案競技公開プレゼンテーション
平成21年3月4日(水)13:00〜16:00
広島国際会議場(平和記念公園内)地下2階 国際会議ホール「ヒマワリ」

ひろしま市民と市政
広島市
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広島市の橋梁デザインコンペ


現在広島市役所本庁舎1階市民ロビーで公開中の平和大橋歩道橋コンペ応募作品のパネルですが、展示の様子をこちらの動画ニュースで見ることができます→RCC NEWS(1月29日のHADELINE)

広島市による橋の国際コンペ、盛り上がっています。平成18年に施行された「広島市景観条例」に基づき、来年度そうそうには広島市による橋梁の国際コンペの第2回目、広島南道路太田川放水路橋梁デザインコンペが開催されることがつい先日発表されたばかり。そのコンペの審査員長には政策研究大学院大学教授であり、僕の愛読書『橋の景観デザインを考える』の著者でもある美しい橋のエキスパート篠原修氏がつとめる。

この広島南道路太田川放水路橋梁コンペは、広島市内を流れる六つの川のうちのひとつである太田川の広島湾にほど近い河口付近に架橋する、自動車専用道路(片側2車線)および自転車歩行者道を対象とする。ロケーション的には、広島の建築家三分一氏設計のお好み焼き館 WoodEggがある井口を西に、広島西飛行場の真横にあたる場所だ。

こちらの応募登録の受付は来月の5日までの模様。応募資格には土木コンサルの資格を有するものを配置できるもの、とあるので平和大橋歩道橋コンペ同様、ハードルの高いものになりそうだが、河口付近に位置する大橋とあって、ダイナミックな国際的なすばらしいデザインの橋を見てみたいと思っている。

広島市内の河口付近に架かる大橋としては京橋川河口にかかる宇品橋(200年3月開通のローゼ桁橋)があるが、宇品方面へのツーリングから市内に帰る途中に、このダイナミックな橋を自転車で渡ったときの感動は今も忘れることができない。ぜひ、今回の新しい橋でも同じような体験をしてみたいものだと期待している。


詳細は広島市のホームページ、以下を参照ください。
広島市広島南道路太田川放水路橋梁デザインの募集
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平和大橋歩道橋デザイン提案競技作品公開展示


先日からお伝えしている、現在広島市で行われている「平和大橋歩道橋デザイン提案競技」だが、本日より広島市役所本庁舎1階市民ロビーにて、応募29作品全てのパネルボードの公開展示が行われている。
公開期間は本日より2月3日(火)までの平日、8時30分から午後5時15分まで。
わずか4日間だが、現地ではさっそくテレビ局や新聞社も取材に訪れているようで、我が国では初となる橋梁の国際コンペに対する注目度の高さがうかがえる。
広島にお住まいの方、期間中に広島市を訪れる予定のある方は是非、訪れて観ていただきたい。
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平和大橋歩道橋デザイン提案競技について


広島市のホームページによると、平和記念公園の両入口に架かるイサムノグチデザインの高欄をもつ二つの橋のうち、歩行者の通行量の多い、東側の平和大橋の上流側と下流側に架ける歩道橋のデザイン選定「平和大橋歩道橋デザイン提案競技」の募集が今月5日に締め切られた。
広島市のホームページ内「平和大橋歩道橋の出事案募集について」をみると、31者の申し込みがあったことが記されており、その内訳は国内22者、国外9者となっている。
国外9者をネットで検索したところ、地元中国新聞のニュースによれば、シンガポール2社、ドイツ、デンマーク、スイス、オーストリア、スペイン、オーストラリア(残り1不明)であることが報じられていた。スペイン、あの人?ドイツ、あの人?などとさまざまな空想が膨らむ。

コンペ応募の経緯は応募登録申請が昨年秋10月9日に、年明けそうそうのさる5日に応募作品の受付がそれぞれ終了。
以降の予定は、建築家の内藤廣氏を選考委員長とする「平和大橋歩道橋のデザイン提案競技選考委員会」の審査を経て、年度内に当選案を決定する予定、とのこと。
その後に市より発表された5日までの応募数は29、内訳は国内22、海外7となっており、オーストリアの文字が消えている。

人類が未だかつて経験したことのない人間と都市に対する原子力爆弾の投下という、前代未聞の出来事を経験した地球上で唯一の都市である広島。そしてその慰霊のために建築家の丹下健三のマスタープランにより造成された、平和記念公園の入口に架かる、イサムノグチの芸術的でスタティックな美しさをもった橋に寄り添うように造られる歩道橋のコンペとあって、建築界や土木界のみならず、デザイン界からも注目されるべきデザイン競技といえるだろう。
広島市によるさまざまジャンルからの新しい才能に広くチャンスを開きたいという配慮もあり、学生、デザイナー、アーティスト等の専門的知識を有する協力者を加えることも可能としている。
しかし応募要項にあるように、土木のコンサルタントとの協働が条件とされたことも、応募のハードルを上げた要因になった。
国内では初となる橋梁の国際コンペで、登録申請が31者というのは少ない気もするが、橋梁は建築や芸術の範疇ではなく、土木に属するものと考えれば決して少ない数字ではないと思われる。

現時点で応募者は公表されていないが、その地理的な注目度の高さからいって、世界的に高名な建築家や芸術家、土木の専門家が応募していることは容易に想像できる。
被爆都市広島の新たなシンボルとなるに違いないこの新しい歩道橋は、芸術としての評価の高い、彫刻的なイサムノグチの既設の橋をひき立てる存在になることはもちろん、建築や土木、芸術といった範疇を越えて、人類のため市民のためにどのような存在になるべきなのか?その問題意識がこの新しくこの地に架けられる歩道橋の意義や意味になるのではないだろうか。

HPには原則選考委員会は非公開でおこなわれ、2月の第一次選考までの一定期間、原則としてすべての応募作品が一般公開されることになっているという(1月28日から2月3日の間の平日、広島市庁舎にて公開)。
個人的な広島への思い入れ、広島を訪れるたびに必ずおもむく平和大橋に隣接する歩道橋だけに、進捗状況が非常に気になるコンペである。





ここら辺に歩道橋が架かる予定です。

イサムノグチと平和大橋については、こちらの書籍が現在入手しやすく詳しいです。
イサム・ノグチ<下>ー宿命の越境者
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HIROSHIMA 1958


銀座のニコンサロンで開催中のエマニュエル・リヴァ写真展「HIROSHIMA 1958」を見てきた。これは先月末から今月上旬にかけて広島で開催された同名の写真展の東京巡回展だ。
タイトルを見ても分かるように、この写真展で発表された写真には1958年当時の広島の風景が写し出されている。
真新しいイサム・ノグチの西平和大橋、整備されたばかりの平和記念公園、いわゆる原爆スラムのある川辺の景色、市内に流れる六つの川のひとつ本川の河口に近い江波の町の人々。
エマニュエル・リヴァとは当時パリで舞台中心に活動していたフランス人女優で、世間的にはフランスヌーベルバーグの傑作映画、マルグリッド・デュラス脚本アラン・レネ演出の1959年公開「二十四時間の情事」の主演女優としてよく知られた存在だ。
ブリジッド・バルドーのように肉感的な女優、そしてジャンヌ・モローに代表される知性派と、一口にフランス人女優といっても当然のことながらそのイメージはさまざまだ。
リヴァはモローの系譜の知性派女優といったところか。ともに同じマルグリッド・デュラスの原作それぞれ異なる映画にも主演しているところにも共通項を見出すことができる。



そんな写真家でもない彼女が、50年前に映画撮影のために滞在中の広島で、膨大な数の写真を撮影していたことは以前の記事で紹介した。その写真展が映画撮影から50年の時を経てついにこの冬、広島と東京で実現した。
1958年当時の広島の風景を白黒のフィルムに焼き付けた彼女の写真には、それまで当たり前でありながら、原爆という過去の記憶に覆い隠されていた、広島の人々の日常の、生き生きとした暮らしが写し出されている。
原爆投下前と後と同じように今もそこにある人々の暮らしは、とりたてて特別なもののない、なんの変哲もないものだ。それでも広島を訪れた異邦人が見た50年前の広島は、モノクロームの風景の中にありながら、青い空は青く、絣の着物の朱は朱に、カラフルな色を想像させるものであった。
時間の経過、今はもう失われてしまった風景、というノスタルジーの色眼鏡を外してみてもこれらの写真は響く人には響く、写真としての普遍的な価値をもっているだろう。

広島、ヒロシマ、ひろしま、HIROSHIMAと人は広島をさまざまに呼ぶが、もしこの映画と関連付けて広島を語るシネマフリークなら、一度は広島をちいさな声で「イホシマ」と言ったことがあるだろう。このロマンスとも反戦映画ともとる事が可能な映画の最後の最後で、日本人を総称して「HIROSHIMA」とエマニュエル・リヴァに言わしめたマルグリッド・デュラスの脚本で広島は、「H」を発音しないフランス語独特の発音によってイホシマになったのだから。
僕がこの写真展の開催にあわせて50年ぶりに来日した彼女の口から聴きたいと思っていた言葉とは、ほかでもない劇中で音楽のように印象的に響くこの言葉であった。

昭和初期に建てられたRC造の建築が多く残る銀座の裏道はどこか、この映画のなかに映し出される、百貨店「福屋」のある風景に似ている。
50年前の映画の中に映し出される風景のように、今も昭和なネオンが夜が明けるまで灯る、けばけばしい広島の夜の繁華街を、僕も何度も何度もさまよったりした。この映画への特別な思いも、あの夜の広島の風景が土地の記憶のなかに残る今の広島の街の風景も人も、これからもずっと僕にはあこがれの対象であり、いつも変わらない日常であることには今も変わりがない。

HIROSHIMA 1958



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ゼロ年代から考えること


自分が大好きだった下町の風景が、つぎつぎと高層マンションにとって変わっていくなか、憤りのようなものを感じ始めていた20年ほどまえ。そんな憤りのようなものを言葉にしてくれたのが、ホンマタカシの「TOKYO SUBERBIA」だった。SUBERB=郊外という言葉を意識したのはこの時がはじめてだと思う。
東京の下町といわれる地域で生まれて、いわゆる郊外的な風景には無縁に育ってきた。コンビもなかったし、ましてやファミレスなんてなかった。あるのは自宅の土間を改装したようなちいさな町工場と、友だちの家のあるのどかな商店街。浅草の繁華街にくり出せばへび使いの見世物小屋や、半端物の市がたっていた。
そんな風景が少しずつ消えていき、いかにも清潔を売りにしたような目新しくもありきたりなマンションになったり、自分たちが通う学校の校舎さえも、どの学校もまったく同じかたちで、校舎の姿では学校名を区別することさえ不可能になっていくような均一さが、そのころ流行っていたTVゲームの侵略者のようにせまってきた。
子供の狭い行動範囲のなかでも、もう自分が浅草にいるのか橋場にいるのか、三ノ輪にいるのか判らなくなってきた。街の記憶はもはや誰もが世代を越えて共有できるようなものではなく、そこに生きていた人間の記憶の中だけの目には見えないものとして封印された。そんな工学的な確かさで作られた安全安心でキレイな街の風景で東京は21世紀を迎えた。

街は価格の安さや均一さを売りにする、そんな安売りのお店のようになってしまったのか?ゼロ年代をやりすごして、続く2010年代に僕らがやらなければならないこととは?
もはや用なしになってしまったかのように見える街の記憶のなかから、それさえものり越えながら見えてくるものを、今度は人の心のなかから見つけ出していけたら、とおもう。



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そもそも広島を語ることのルーツを語る


都市住宅「7306 不法占拠」、「7308 特集| 高層団地(後編)」

数ある僕の都市住宅のコレクションのなかでも、これらの号は僕にとってもっとも密度の濃いものだ。都市住宅といえば磯崎新氏による年毎にシリーズ化された表紙もよく知られるところだが、この年の表紙連作「マニエリスムの相の下に」も素晴らしい。
7306不法占拠の号における、基町相生通り=<原爆スラム>の詳細な調査は、現在は高層団地とトウフのような低層団地が連なり、今はもうあとかたもない、川辺に自生した雑草のような生のたくましさをたたえていた、基町相生通りにおける素朴なコミュニティに生き生きとした輪郭を与えてる。
印象的なその内容は、スラムにおける「戸別アンケート」、スラム内の路地の定点観測「時間別行動調査図」、家族構成と生活の現状「<いえ>の構成と生活実体」、等々。

7308高層団地特集は、表題の高層団地の設計を手がけた大高建築設計事務所による基町・長寿園高層団地計画報告書である。さきの不法に占拠された基町相生通りの再開発であるこの計画は、原子爆弾の被爆によるひとつの都市の決定的なダメージという、切実な事情の中で生まれたコミュニティの「解体」と「再生」という難問に取り組んでいながら、今の再開発にはないすがすがしささえ感じることができるもの。
それは現在までつづく基町高層団地の住まわれ方をみればわかることだ。
「基町今昔」という原爆スラムと再開発後の写真による対比は、「ピロティー」、「コアホール」、「プライバシー」などをキーワードに、'70年代初頭のまだまだ低層住宅が居並ぶ日本的な風景のなかに生まれた高層住宅という異物が、地域にどのように形づくられてきたのかを、この地域にあった暮らし歴史という社会性とともに映し出していて興味深い。


※そんな傍観者に近い視点から広島の建築を眺める僕と、そこに住まい、日々そんな風景を共有している広島に暮らす人々、そして街づくりを手がける建築家の人々。そんな多くの皆さんと意見交換ができれば嬉しいです。
上の写真は都市住宅2冊。右の空撮の風景は、建設中の基町団地と原爆スラムが共存するめずらしい風景です。写真左側中央には広島城とそのお堀、下流で天満川と本川のふた手にわかれ、大きく蛇行するように流れるのは大田川です。
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谷尻誠さんの建築...3-2.
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 「建築」という空間の広がりのなかで、それがいかに日本的な都市の風景を背景に機能するのか?それはもはやそこに暮らすものにも分からなくなるほどに多様化し、それを語るための言語もひとつの共通言語によってではなく、それぞれの呟きにも似た曖昧なものになりがちだ。
 建物は造られることによってしか存在しえない具体的なものである。しかし建築とはそれを思うことの上にも成り立つ空想的な未来に向けたヴィジョンにもなる、という点においてますます多様化するべきものだし、そのあり方は一様である必要はない

先日の来広のおりに、昨年の秋ほぼ同時期に竣工した東広島の西条にある2つの個人邸に、建築家、谷尻誠さん自らにご案内していただくという、なんともうれしい経験をさせていただいた。
その特徴的な外観から、黒い家と白い家と呼ばれている2つの西条の家。それは広島市の中心部からハイウエイを通って、いくつも山を越えた田畑の広がるのどかな田園地帯にある。
最初に連れていっていただいた黒い家は、カーサブルータスの2月号に竪穴式住居と紹介されているように、穴を掘りその底を床面にし、天に向かって柱を建てた個性的な外観の住宅だ。
そのピラミッドのような奇天烈な外観とは裏腹に、内部は生活のための設備が効率よく配置されている。

建物を支え基礎となる、緻密な構造計算の上に成り立っている建築だと思った。
構造は建築のなかでもっとも美しいもののひとつで、たとえば建物の基礎をつくる鉄骨の組み合わせはそれだけで美しい彫刻作品のように見える。

私の母のお好み焼き屋での飲みの席で、谷尻さんに実演していただいた割り箸を使ったちょっとした遊びは、建築を愉しく知るための示唆に富んでいた。それは3本の割り箸をトライアングル状に組み合わせることで、並々とビールが注がれたグラスを支えることが出来るだけの強度を持たせることができるというもの。建築とは学問のように難しく考えることも可能だが、身近にあるものごとに対応する極めて当たり前のことであったりする。

この西条の家01に結果的に導き出された竪穴式という古典的なキーワードと、その屋根がもつ、傾斜という極めて土着的なものが、元来あるはずの普遍的な建物の形状を個性的な方向に突き詰め、突き抜けさせている。掘り下げた平らな底面を家の床にすることで見た目にも安定感を生み出し、ローコストに結びつけている。

それがこの建物の周辺にある、現代日本における一般的な住宅という、ありふれたアーキタイプの集合のなかにあって、それさえもかけがえのない日常のなかの愛おしい風景にかえてしまうような不思議な力に満ちている。
見れば見るほど一見異質なその造形も、この風景のなかで際立ってこの国の風土を反映しているように見えてくる。

脆弱な土地のそれが安定する固い地盤まで掘ることによって、深く鉄骨を埋める必要性を回避し、柱そのものが基礎の役目を果たす。
それは同じ広島の地に建つ、世界遺産宮島の海に基礎を持たずにそびえる大鳥居を想起させる。



谷尻さんが主宰する『Suppose Design Office』の展覧会が、名古屋で開催中です。

SUPPOSE DESIGN OFFICE EXHIBITON
2008.01.13(SUN)〜03.01(SAT)
12:00-20:00(最終日-17:00)
Florist・Gallery N
名古屋市千種区鏡池通3丁目5-1
定休日14日・日曜・祝日


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